- 第四話 流砂のほとり -

 ウルトゥアーンをさらったヤーヌーシュは、はるか西の沙漠へと飛び去った。魔王の面を手に入れてから、彼の身には人外の魔力がそなわったのである。

 彼は流砂のほとりに庵を結び、その魔力をもって魔物を召還し、周囲を護らせた。

 それゆえ、藩王のはなった捜索者も、かれらを見出すことができなかったのである。

 ヤーヌーシュは、ウルトゥアーンのためにさまざまな魔力をふるった。

 彼女がさびしいといえば、クリヤーラそっくりの侍女を魔法でつくりあげた。

 歌が聞きたいといえば、魔物に命じて異国の楽士をさらわせた。

 楽士はウルトゥアーンの美しさにおどろいた。が、同時にヤーヌーシュの魔力をも畏怖したので、美女を讃える歌をつくるのはあきらめ、代わりに、知る限りの歌をうたった。

 その歌のなかに、湖に住むという精霊のことをうたったものがあった。

 ウルトゥアーンはいたくそれを気に入り、何度でも楽士にうたわせた。やがて、彼女はヤーヌーシュに頼んだ。

「いとしい御方、湖とやらいうものを、この地につくることはかないませぬか」

 ヤーヌーシュは眉を曇らせたが、「やってみよう、おれのかがやく闇よ」というと、ひとり流砂のほとりに赴いた。

 彼は、大いなる自然の力にさからって、その乾いた地に湖を生みだそうとした。眉間には皺が寄り、身体中に玉のごとき汗が浮いた——そして、彼の足もとの砂が、ゆっくりと水に転じた。

illustration by Ridoru

 その日、風は凪いでいた。

 あらわれ出た水面は、静かなること鏡のごとくであった。

 そして、ヤーヌーシュは見た。

 おのれの顔を。

 それは美しく、かがやかしく——彼が望んだのだからあたりまえではあったが、魔王そのひとと寸分違わぬ、この世のものとも思えぬ美貌であった。

 ふと、ヤーヌーシュは思った。

 ウルトゥアーンがいとしいと呼ぶのは、ヤーヌーシュのことであろうか、それとも、彼の仮面のことであろうか、と。

 ああ、この仮面が剥がれたなら。彼はそう思った。

 ほんの一瞬のことであった。

 世にも美しい仮面は、彼の顔から剥がれ落ちた。

 ヤーヌーシュが茫然とみつめる内に、仮面は水中に没しはじめた。

 ヤーヌーシュはあわてて飛びこみ、魔王の仮面を拾おうとした。

 だが、彼が飛びこむほんのすこし前から、水はまた砂に戻りはじめていた。仮面が落ちた瞬間から、すべての魔法は効力を失いはじめていたのである。

 水は、思っていたよりも深かった。見上げれば、魔王の面はすでに水面に浮かび上がっている。

 その後を追おうと、ヤーヌーシュは手で水をかいた——けれど、それはもう黄色い砂に転じていた。

 こうして、ヤーヌーシュは砂の海で溺れたのである。

 魔法でかたちづくられたものは、次々と消えていった。

 おどろいたのは、ウルトゥアーンと楽士である——この地では、生身の人間といえば彼らふたりだけであった。

「私が見て参りましょう」楽士はそういって、ウルトゥアーンを置いて外に出た。

 彼は、流砂の上にころがった、魔王の面をみつけた。

 楽士は、おそるおそるそれを手にした。

 そして、かぶった。

 すると、身体のすみずみまで、偉大な魔力で充たされたことがわかった。

 彼は崩れたものをたちどころに再建し、美しいウルトゥアーンのもとへ戻った。

「戻ったぞ、我が妻よ」

「ああ、いとしい御方」そう叫んで姫は楽士に抱きついた。「あなたを失ったかと思い、お待ちする時間のどれほど辛かったことか。妾のたましいはすでにしてあなたのもの。けれど、今、はじめてわかりました。あなたを神のごとく崇めたてまつるのではなく、妾はあなたを愛しています。不埒な女とおっしゃいますな、これが偽らざる我が心の内なれば」

「おれも愛しておるぞ」

 楽士が姫の芳しいくちびるに顔を近づけたとき。

 彼の背後に、ぼうっと人影があらわれた。

 ——姫。

 ウルトゥアーンは悲鳴をあげ、楽士はあわててふり向いた。

 そこに立っていたのは、ヤーヌーシュそのひとであった。

 ——姿を見てもわからぬか。それも道理、おれはずっとあなたをたばかっていた。

 そういって、ヤーヌーシュの亡霊は一部始終を語った——彼が生まれた夕暮れのことから、闇の御子に仮面を貰い受けたことまで、すべてを。

 ——姫の気もちを疑ったばかりに、おれは生命を落とした。かつて、生ある身で訪れた彼の地を、今度は死して歩むことになる。だが、そのまえに、あなたに謝りたかった。

 ヤーヌーシュの亡霊は、揺らいだ。

「お待ちください」姫の顔は蒼白である。「ついさっき妾のいうたこと、お耳に入りませなんだか。あなたをいとしいと……」

 ——嬉しかった。

 亡霊となってもなお、ヤーヌーシュの声は音楽のごとく、流れるように美しかった。

 ——だが、おれは今より闇路をたどる。姫はおれを忘れねばならぬ。

「妾もお連れください」ウルトゥアーンは亡霊に駆け寄った。「もう、置いてゆかれるのはいやです。かつては魔王御自身にも置いてゆかれ、今またあなたにまで見捨てられたら、妾はこの先どうして生きてゆけましょう」

 ——おれはあなたを騙していたのだぞ。それでもついて来るか。

「承知の上です」

 ——死してなお、また騙しているのかもしれぬぞ。

「かまいませぬ」ウルトゥアーンはそういって、狂おしく周囲に視線をはしらせた。そして、かつて彼女がウルトゥアーンの城にいたころ、クリヤーラがヤーヌーシュの生命を狙ったと同じ、あの短剣を棚の上に見出した。「連れていってくださらぬのなら——」

 姫はその短剣にとびつき、すらりと鞘から抜きはなつと、そのかがやく刃を自らの胸に埋めた。

 ——ウルトゥアーン!

 亡霊は叫び、くずおれた彼女の身体のかたわらに身を投げた。

 苦痛に顔をゆがめていても、ウルトゥアーンの美しさは月魄のごとくかがやかしく、苦しい息の下からやっとの思いで話す声すら、夜風のごとくすずやかであった。

「連れていって……くださいますね」

 亡霊は、透きとおる青い手で彼女の身体をかき抱いた。

 ——連れてゆく。連れてゆくとも。

 そうして、亡霊は消えた。

 ウルトゥアーンも息絶え、あとには魔王の面をかぶった楽士だけが残された。

 ヤーヌーシュとウルトゥアーンは、闇の御子の宮廷で仲睦まじく暮らしたという。彼らふたりは魔王に気に入られ、力ある魔物の眷族となったとも、また、やはり彼らは神々の転生であって、ヤーヌーシュは魔王アストゥラーダの、ウルトゥアーンは月の女神ラーシェンドラの内に戻り、闇の領土を治めたともいわれる。

 が、ヤーヌーシュそのひと以外、生ある内に黒の御子の宮廷を訪れた者はいないので、真相はだれにもわからない。