物語は、すこし前に戻る。
ウルトゥアーン姫の居室から閉め出されたヤーヌーシュは、その昏い眼を伏せて、なにごとか考えている風であった。
風が彼の黒い髪をゆり動かした。
不意に、美麗なる若者は顔を上げ、厚い石の扉に向かってこう叫んだ。
「しからば、我れは身をもって真偽のほどを確かめようぞ」
ヤーヌーシュは案内もなしに回廊をめぐり、領主リグナータの厩に行き着いた。彼はそこで三頭のすばらしい馬を選ぶと、ひとつの眼を潰し、ひとつの耳を潰し、ひとつの鼻を潰した。そして、鞍もつけずにひらりとまたがり、闇の中へと駆けていった。
外は、まったき闇夜であった。
二頭の馬を左右に並べ、ヤーヌーシュは盲いた馬に乗って進んでいた。
遠く、遠く駆けてゆくうちに、闇の奥からさまざまな色彩がうまれ、双頭の獅子のかたちとなって襲いかかってきた
ヤーヌーシュは眼を閉じ、おのれの乗った馬にまかせて先に進んだ。
盲いた馬は、脅えることなく駆けつづけ、獅子のからだを突き抜けた——すると、たちまち獅子は消え失せて、あとには濃さを増した闇だけが残った。
若者は、さらに馬を進めた。
遠く、遠く駆けてゆくうちに、闇の奥からさまざまな音がうまれ、聞くに耐えない音の束が彼らを鞭打った。
ヤーヌーシュは耳を潰した馬に乗り換え、自らは耳を塞いで、先に進んだ。
聾の馬は、恐れることなく駆けつづけた。やがて、音は甘美なるしらべと転じ、聞く者の心をとろかして、眠りへと誘うかに思われた——二頭の馬は足をゆるめたが、ヤーヌーシュを乗せた一頭はそれに気づきもせず、ただひたすらに、闇の中を駆けぬけた。
そうして音が聞こえなくなったあとには、やはり闇だけが残された。
若者は、さらに馬を進めた。
遠く、遠く駆けてゆくうちに、闇の奥からさまざまな匂いがただよってきた。それは、どのような薔薇よりも甘く、どのような茉莉花よりも芳しく、どのような芥子よりもやわらかな匂いであった。
聾の馬は足をとめ、その甘い薫りの中に倒れた。
ヤーヌーシュは両手で鼻を押さえ、匂いを嗅がぬようにして歩きだした。
すると、彼の背後の闇をぬけて、残りの二頭が駆けてきた。一頭はすぐに倒れてしまったが、最後の一頭である鼻を潰された馬は、甘美なる薫りにも惑わされることはなかったので、ヤーヌーシュはこれにうちまたがり、さらに闇の奥へと駆けていった。
やがて、馬が疲労のあまり口から泡をふきだしたころ、人馬は三界をつらぬいてそびえるという闇の塔に辿り着いた。
ヤーヌーシュは馬を降り、塔の扉の前に立ちてこう呼ばわった。
「我が名はヤーヌーシュ、闇の御子の生まれ変わりといわれし者、もしこの内に魔王を名のる者あらば、我れの前にあらわれ出よ」
すなわち、扉は大きく左右に開き、ヤーヌーシュは巨大な広間へと歩み入った。
広間の奥には丈の高い玉座があり、そこに座したるは、名をいうもはばかられる畏れおおき御方、黒の御子にして魔王アストゥラーダそのひとであった。
その双眸は、闇の中にありてなお黒く、ひたとヤーヌーシュを見据えていた。
どのような光も、魔王そのひとの瞳の奥底まで照らしだすことはできないであろう。その黒のあまりの黒さに、みつめる者はみな眩しいような気もちにとらわれ、眼をほそめてしまうのであった。
もちろん、ヤーヌーシュとて例外にはなり得なかった。
さしものヤーヌーシュも、ここに至っては、己の魔王などではないことを自ら認めぬわけにはいかなかった。
恐れ知らずと称されたヤーヌーシュは、しかし、ゆえなくしてそう呼ばれていたわけではない。
彼は、魔王の御前で深く一礼した。
「並ぶ者なき闇の御子よ。我れ御身の転生と呼ばれしに、今の今、その尊きお姿を拝したてまつり、我が身の卑小さにうちひしがるる思い。二度と再び、御名と並び称すことはかないませぬ。されど、生命ある身にてこの地にいたるも、ひとつの運命」
魔王のかがやかしい美貌が冷淡にみつめるのを、ヤーヌーシュは痛いほど感じた。皮膚がささくれだつほどであった。
けれど、若者は怯じることはなかった。
「魔王よ、我が歌を聞きたまえ。もしお気に召さば、我が願いをかなえたまえ」
「なんなりと」と、魔王は答えた。その声はさして大きくもなかったが、広間の空気をふるわせた。「して、気に入らぬときは?」
ヤーヌーシュは答えた、「我が生命をとりたまえ」と。すなわち、魔王のうなずいていわく。
「それも一興」
そのようにして、ヤーヌーシュは魔王の宮殿でうたうこととなった。
そのとき若者がどのような歌をうたったのか——話すことばさえ楽の音にたとえられた彼であったから、さぞ美しい歌であったろうが、それについては、なにも伝えられていない。
おもしろい歌であったか、悲しい歌であったか。雄々しい歌であったか、それとも愛の歌であったのか。
今となっては、知るよしもない。
だが、その歌は三昼夜に及び、若者は喉から血を流したほどであったという。
そうしてヤーヌーシュがうたい終えると、魔王はこういった。
「そなたの望みをいうてみよ」
ヤーヌーシュは答えた。「あなたさまの、そのかがやく顔ばせと同じものを」
広間の壁を埋めていた魔物たちが、口々に非難した。
「なんという身のほど知らずな」
「殺してしまえ」
「あのやわらかな顔を引き裂いてしまえ」
しかし、魔王は一喝して、「よい。気に入ったぞ、堕ちゆく星ヤーヌーシュよ。そなたの望みをかなえよう」そういって、そのなめらかなる腕をひとふりすれば、ヤーヌーシュの眼前は闇に染まり、魔王そのひとと寸分違わぬ美貌の仮面が空中に忽然とあらわれ、若者の顔に貼りついた。 かと思うと、彼はたちどころに地上に戻されていた。
若者はすぐさまウルトゥアーン姫のもとへ赴いた。
「姫よ、我れを見よ」彼は叫んだ。「我れこそは闇の御子、そなたのたましいを奪いし者」
ヤーヌーシュをはばもうとしたクリヤーラは、あまりの神々しさに耐えかねて、その場にひれ伏してしまった。
若者は、ウルトゥアーンの前に立った。
たぐいまれなる美姫ウルトゥアーンは、ひとめヤーヌーシュを見るなり、「ああ、いとしい御方」と叫び、その星のごとき双眸からはらはらと涙をこぼした。
「ほんとうにおれを愛しいか」
「はい」
「そなたはおれのものか」
「はい、妾はあなたさまのもの」
「おれとともに来るか」
「はい、どこまでも」
ヤーヌーシュはにこりと笑い、姫の足を繋ぐ金鎖をひきちぎると、「では、参ろう」と姫の手をとり、窓からその身をおどらせた。
しばらくして、ようやく我にかえったクリヤーラがあわてふためいて窓にかけ寄ったときには、ふたりの姿はどこにもなかった。
藩王リグナータは嘆き悲しんで、多くの者を送ってふたりをさがさせたが、地上のどこをさがしても、二度とふたたび見出すことはかなわなかったという。
ヤーヌーシュとウルトゥアーンがどこへ消えたのかは、だれも知らぬ。