物語はすこし前に戻る。
露台にて、女はヤーヌーシュに向けた刃をおさめた。「そなたのいうことも道理」女は、あらためてヤーヌーシュをうちながめた。
「黒の御子の生まれ変わりとはよくいうた。したが、わが姫におかれましては、魔王御自身をご覧になられたとおっしゃる。現身ではなく、まぼろしであられたと……」
「姫をこれに連れて参れ」
うたうようにいうのを、女はぴしゃりとはねつけた。
「姫さまは御病気にておわしまするぞ。そなたは病人を歩かせると申すか」
女の意志は鉄のごとし。若者の並みはずれた美貌にも、すこしも心動かすことはなかった。
「ついて参れ」さっきまで刃物を隠していた布をふわりと肩にかけ、女は廊下の闇へと消えた。
ヤーヌーシュはその後をもの憂げに追った。
長いあいだ、ふたりはこそりとも音をたてずに廊下を歩きつづけた。
ウルトゥアーン姫の居室ははなれの塔にあり、途中、みごとな透かし彫りの天井に覆われた渡り廊下があった。そのときだけ、女は足をゆるめ、ヤーヌーシュに告げた。
「ここにて、姫さまは魔王にお会いになられた」
ふたつの建物を、高い位置で結んだ通廊であった。
それを支える脚部は、つるりと磨きあげられた黒い石の柱であり、廊下の両端は、やはりなめらかな石の扉で閉ざされている。侵入するとしたら、空から舞いおりるしかなかった。欄干の高さは腰ほどまであり、そこから床へつづく部分の内側には、百花繚乱の文様が象嵌されていた。
屋根の精妙な細工を支える柱には、石で彫られた植物がからまっている。
余人はいざ知らず、しかし、ヤーヌーシュはそれしきの美には無頓着であった。
「早く案内せい」
女は無言でヤーヌーシュを見やったが、いわれるままに足を早めた。
姫の居室の扉もまた、磨きあげられた黒い石でできていた。四隅には、四大を象徴する精霊の名が、銀で象嵌されている。
「姫さま、闇の御子と名乗る者をお連れ申しました」
女はそういって、扉にふれた。さして力を入れたようすもないのに、扉は音もなくなめらかに開いた。
ヤーヌーシュは、女につづいて中に入った。
広い部屋であった。
その奥まった部分に、白い薄布が何枚もかけられていた——ちょうど、女が頭からかぶっていた布と同じように、すこし向こうが透けて見える。
そこには、ほっそりとした人影が、半身を起こしているのがうつっていた。
「おまえなの、クリヤーラ」
その声は、すずやかな風を思わせた。
クリヤーラと呼ばれた女は低く腰をかがめると、すり足でそちらへ向かった。
「どうでございましょう、姫さま」
布の端がふわりと揺れ、一瞬、若い女の青ざめた貌がのぞいた。
ヤーヌーシュは傲然とその視線を受けとめ——それから、不意に胸をつかれるような思いに陥った。
娘の眼は罠にかかって脅える若い雌鹿のようであり、わななくくちびるは深海の珊瑚よりも紅く、額の白さは月魄のごとし、不安げにのべられたうなじは砂丘にも似た曲線を描き、それらのすべてがひとりの年若い娘におさめられているありさまときたら、この世のものではないかに思われたほどであった。
それこそが、かがやく闇——ウルトゥアーンと呼ばれる姫であった。
「……違う」すずやかな、けれどどこか虚ろな声で、姫はいった。「あの御方ではありません」
「姫さま……」
女の途方に暮れたような声に答えたのは、低いすすり泣きの声。
ヤーヌーシュは思わず前に進み出た。その動きは流れるごとく、美しい。
「いかがなされた、月輪のごとき姫よ」
クリヤーラがさまたげるより早く、彼は布をはね上げ、姫のかたわらに立った。
あらためて近くで見ると、姫の美しさはなみなみならぬものであった。胸は万年雪の白さをたたえてふっくらとふくらみ、腰はほそく、乱れた夜着の裾からのぞく足首には、金鎖がかけられていた。
その金鎖は、寝台の天蓋を支える大理石の柱につながれている。
「……なんということを!」
ヤーヌーシュは囚われの姫を見下ろした。 姫は顔を上げ、ヤーヌーシュを見上げた。
その瞬間、たった今まで自惚れにかためられていた若者の心はすっかり溶けだしてしまい、目の前にいるウルトゥアーンひとりのものになってしまった。
「姫君……」
姫の黒瞳には、涙がたたえられている。
「そなたでは、ない」ウルトゥアーンは静かにそう告げた。
否定のことばさえ、ヤーヌーシュには天上の音楽にもひとしく聞こえた。
けれど、美しいおとめはこうつづけた。「たしかに、そなたに似ていらっしゃるところがあったやもしれぬ……いや、違う。あの御方の眼は、そなたのよりも昏かった。ぬばたまの闇よりも、さらに。あまりに昏かったゆえ、かがやいて感じられたほどであった」ささやくようにそういって、ウルトゥアーンはヤーヌーシュから眼をそらした。
「そなた、もしもあの御方の現身というならば、なにゆえあの御方御自身が、この地においでになったのであろう」
「それこそ贋物、我が名をかたる不届き者」
「お黙り」
ぴしゃりといい置いて、ウルトゥアーンは顎をしゃくった。すると、ヤーヌーシュの背後に控えていたクリヤーラが、彼の背に刃をあてた。
うながされるままに後ずさる彼に、ウルトゥアーンはこう告げた。
「あの御方こそが闇の御子、ならぶ者なき黒の御子、三界の王にして闇の領主であらせられる、名をいうもはばかられる尊い御方。そなたの顔なぞ見たくもないわ」
「さあ、出てお行き」クリヤーラはそういって、ヤーヌーシュを扉から締め出した。
扉の外には衛兵が立っており、ヤーヌーシュを城から連れ出そうと待ち構えていた。
今や自身の拠るところを失った若者は、おとなしく従うと見せかけて、衛兵の帯剣をすらりと抜きはなち、「我れこそは魔王アストゥラーダの紛うかたなき転生なり! 我が顔形もて、神殿に祀れ、罰当たりな者どもめ!」そう叫ぶやいなや、我れと我が身に刃をあてて、その美しい貌を一刀のもとに削ぎ落とした。
茫然と立ちすくむ衛兵と、その削ぎ落とした顔をその場に残し、ヤーヌーシュは渡り廊下へとよろめき走り、欄干をこえてその身を宙におどらせた。
騒ぎは城中にひろがり、衛兵が総出で気のふれた若者の死体をさがしたが、地表にたたきつけられた痕跡はおろか、血痕すらみつからなかったという。
また、若者が残した顔は、世にも美しい仮面となって、今もこの世のいずこかにあり、ひっそりとあがめられているという。