詩人が目覚めたのは、もう午後も遅く、日が西の地平に没しようとするころであった。
トゥルキアはすでに身支度をすませ、椅子に腰かけて彼をみつめていた。
「……おどろいた」
しばしの沈黙の後、詩人はようやくそういった。
トゥルキアは、ちいさく笑った。「おどろいた?」
娘は白い仮面をつけていた。額から顎の先までをなめらかに覆う仮面である。
「それより、せっかくのきれいな顔を隠してしまうなんて……もったいない」
「きれい?」そういって首をかしげると、耳飾りがチリチリと鳴った。こまかい金属片をいくつも連ねたのが、彼女の動きにつれてふれあい、そんな音をたてるのだった。「ウルトゥアーンより?」
「さあ。見たことがないからわからないけれど……」笑いながら、詩人は答えた。「もし、ウルトゥアーンがあなたよりも美しいのだとしたら、ぜひ会いにゆかなければならないな。たとえ、闇の領土にくだることになろうとも」
トゥルキアが、さっと身をひいた。
「不吉なことをいうのね」
「なぜ?」詩人はやわらかに問い返した。「美しいものがあるなら、どこへだって行くさ……たとえ、それが極寒の北の果てであろうと、東の大海のかなたであろうと。西の沙漠のただ中、流砂を越えてゆかねばならなくても、魔王の宮殿であろうとも……同じなんだよ。ただ、闇路はだれしもいずれ辿らねばならないものだから、闇の奥津城にいるという月魄の美姫を訪ねるのを、急ごうとは思わないけれど」
夢みるような瞳でみつめられ、トゥルキアは答に窮した。
「……とにかく、あまり闇の領土や魔王のことは口に出さないほうがいいのよ。寿命が縮まるというわ」
「そう? でも、もう遅い。わたしはさんざ語ってしまったから」そういって、詩人はにっこりした。
すると、トゥルキアはいきなり彼にしがみついた。胸に押しあてられた白い仮面を、やけにひんやりとしたものに、詩人は感じた。
「わたしのたましいは、あなたのものよ」彼女はそうつぶやいた。「忘れないでね」
詩人はいたましげな眼でそのつややかな頭を見下ろしたが、声に出しては、ただ、「ああ」と、短くひとこと答えただけであった。
「じゃあ、わたしはもう行かなきゃ」
抱きついたときと同じように、娘は不意に身をはなした。
「どこへ?」詩人は彼女の手をにぎって引き止めた。
「祭りよ」
「わたしも連れていっておくれ」
「だめよ。仮面がないもの」
「仮面……?」
「そうよ。仮面をかぶっていないと、祭りには出られないの。仮面はひとりにひとつしかないから……あなたのぶんはないのよ」
すこし考えてから、詩人はこういった。「塗ればいい」
「え?」
「顔を白く塗って、仮面をかぶっているように見せればいい。遠目にならわからないように、うまくできるかもしれない」
「まあ……でも……」
ためらう娘の手を、彼はにぎりしめた。
「お願いだ、トゥルキア。なんのために、わたしがはるばるここまで来たのだと思う?」
「……いいわ」
トゥルキアは古びた木の箪笥をかきまわすと、螺鈿細工の小匣をとり出した。うすい蓋の内側には、刷毛が納められていた。匣にはさらに内蓋があり、その下に練り白粉がはいっている。
顔を塗られながら、詩人はこういった。「いい薫りだ。こういう白粉には、沙漠のかなたの国でしかお目にかかれないと思っていたけれど」
「父が、隊商を組んで交易していたの。そのころ、おみやげにもらったのよ」
「……ここにはひとりで住んでいるの?」
「口を動かさないで。塗るから」刷毛を乱暴に動かして、娘は詩人のおしゃべりな口を塗りこめた。「さあ、いいわ。頭から布をかぶってしまいなさいな。ああ、そんなに眼をかがやかせないで。仮面をつけていないことがわかってしまう」
「普通だよ、これで」
詩人の黒い頭にふわりと薄布をかぶせ、娘は自分の胸もとに刺していた翡翠のピンでそれをとめようとした。その手もとを、詩人の手が押さえた。
「だめだよ。それはもう、あなたにあげたのだから
「じゃあ、これで……」
そういって娘がかわりにとり出したのは、大粒の黒真珠をあしらった、黄金のピンであった。詩人は嘆声をあげた。
「すごいな。これも、おみやげ?」
娘はかぶりをふった。
「さあ、行きましょう」
彼女が扉を開けると、祭りの音が部屋の中に走りこんできた。
ふたりは手をつなぎ、外に出た。
そこは、昨夜までの街とは違う国のようであった。
街路には花が飾られ、軒先には色硝子の火屋に覆われたランプが吊られ、どこからともなく楽の音が響いてくる。
白い仮面をつけた人々が、金糸や銀糸の縫いとりもあざやかな裳裾をひいて、笑いさざめきながら踊るような足どりで通り過ぎる。
「夢のようだな」
窓辺に飾られた薄紅色の芥子を摘みとり、詩人はトゥルキアの髪にさした。
「ご満足?」
詩人は表情を変えぬようにして答えた。
「これで、思いきり笑えればね」
娘は仮面の奥でくぐもった笑い声をたて、詩人の手の内からそのほそい手をするりとぬくと、かろやかな足どりで踊りだした。
「いらっしゃい。もっとにぎやかなところへ行きましょう」
そうして、ふたりは祭りのただ中へと進んでいった。
祭りは深更までつづいた。
踊って、踊って、踊り疲れたころ、ふたりは街の中央にある広場にたどりついた。
広場の正面には、この街でいちばん高い建物が建っていた。ほかの家々と同じように、壁は白く塗られ、窓は小さい。その尖塔の天辺には黒い旗が掲げられていた。
「あそこには、だれが住んでいるの?」詩人が声をひそめて尋ねると、トゥルキアはぴくりと身をふるわせたようであった。
そのとき。
銅鑼の音が、あたりに響きわたった。青銅独特の、澄んだ音色である。
すると、それまで各々好きなように騒いでいた人々が、いっせいに同じ方を向いた。トゥルキアも、例外ではなかった。
詩人は人々の視線を追った。
あの、ひときわ高い建物の正面に、黄色い髪の若者が立っていた——ひとめで、彼と知れた。彼だけは、仮面をつけていなかったのだ。
色硝子の影が青年の半身を青く染めている。
ふたたび、銅鑼が鳴り響いた。
すると、人々は踊りだした。くるくると旋回し、止まる。二、三歩進んで、止まる。そしてまた、くるりと回る。
音楽もなく、だれが号令をかけているわけでもないのに、人々はみごとに動きを合わせて踊った。
詩人も見よう見真似で踊ってはみたが、やたら人にぶつかるので、諦めて、広場を囲む家の軒下に避難した。
人々は疲れも知らぬげに、くるりくるりと踊りつづけている。
その中に、詩人はトゥルキアの姿をさがした——けれど、どれを見てもただのっぺりと白い仮面がつづくばかりの顔の中で、トゥルキアをみつけることはかなわなかった。
輪舞はつづく。
どれほどたったころか——また、銅鑼が鳴り響いた。
すると、人々はいっせいに動きを止め、またあの青年の方を見た。静寂が、あたりに満ちた。
やがて、青年が声をはりあげた。「シャハリアラナータ!」
人々は声をそろえて復唱した。「シャハリアラナータ!」
青年の黄色い頭が、ちいさくうなずいた。 彼はゆっくりと両手を上げ、自らのこめかみに押しあてた。そして、そのままさらに手を上げていった。
詩人は目をみはった。
青年の美貌は、その手にはさまれたまま本来あるべき場所をはなれ、高々と空中にさし上げられたのだ。
——あれだ!
雷光の疾さで、その考えは彼の脳裏に飛来した。
——あの仮面だ!
もとの頭部からはなれればはなれるほど、その貌はかがやきを増し、この世のものならぬ美しさに変じた。
そのとき、異変が起こった。
景色がうすれ、空気にとけるように消えだしたのだ。
今の今まで詩人がもたれていた家の白壁さえ、ゆらりと揺れたかと思うと、もう消えていた。
広場をうずめた人々も、徐々にその姿をうすれさせていった——彼らは声もなく地に倒れ、ある者はまた立ち尽くしたまま静かに透きとおり、風に乗って消えていった。
ぱさり、という乾いた音が、あちこちで響いた。
それは、彼らの白い仮面が地に落ちた音にほかならなかった。
あまりのことに、詩人は身動きすらできなかった。
その背後から、不意に声がかけられた。
「満足か」
彼は、ふり向いた。
中空に、あの仮面が浮いていた。
その美しさは、詩人のなめらかな舌をもっても、とてもいいあらわすこともできぬほどであった。
黒々とうがたれた眼孔の奥に、得体の知れぬかがやきを秘めたふたつの瞳を見たような気がして、彼は必死に目をそらした。
仮面のくちびるは禍々しい笑みをたたえているようでもあり、また、至福のよろこびに浸っているようにも見えた。
「いかにして、我が街を訪れた」その声はけっして大きくはなかったが、あたりにわだかまる闇を激しくふるわせた。「流砂を越え、魔物どもの護りをかいくぐったのは、いかなる手段によってか」
声は詰問調ですらなかったが、詩人はなにかしら答えずにはいられなかった。
「風にのって」と彼はつぶやいた。
「魔術を用いたか」
「魔術? わたしが魔術を使うというなら、それはわたしの声の内にあるのでしょう。物語をし、歌をうたう声の内に」彼はそういってその手をのべ、なんの歌であるか、美しい調べをひと節うたった。
すると、そののばした手の内をめがけて、彼がハルウィオンと呼ぶ竪琴が飛来した。
詩人はにこりとして、その弦をつまびいた。
「かつて、ヤーヌーシュは魔王そのひとの御前でうたった。今、わたしは魔王の面の前でうたいましょう。いかが?」
美しい仮面がなんとも答えぬうちに、詩人は勝手に物語をはじめた。それは、次のような物語であった。