太史慈伝

んなものぁ、大したこたねぇんだよ。
孔子の子孫だなんだと言っても、結局は本人だろ
updated: 2007/07/09

「誰が忘れるかよ、おめぇみてぇにふらふら動きまわる大将首」

 孫策と再会したとき、太史慈は捕縛された身であった。初めての出会いはその前年、太史慈が劉繇のもとに身を寄せていたときのことだった。江東の情勢を一変させる孫策の快進撃に、ただひとりの武勇をもって立ちはだかったのが、太史慈だったのだ。

太史慈(たいしじ)
 字は子義。孔融のもとで武勲を立てて帰宅したものの、母親にどつかれて家を出る。今は劉繇の客分。
 史実では……孫権が国をおさめるようになって以後、南方地域の処理すべてを預けられた。享年四十一歳。
許劭(きょしょう)
 字は子将。人物評価で知られる名士。かつて曹操を「治世の能臣、乱世の姦雄」と評したことがある。今は劉繇のもとに身を寄せている。
 史実では……若い頃は月に一度、数人で集まって汝南月旦といわれる人物評価をおこなっていた。後に、孫策の猛攻を逃れて劉繇とともに豫章へ行き、そこで病没。享年四十六歳。
劉繇(りゅうよう)
 字は正礼。揚州刺史として袁術と対立、曲阿に拠って江水の南岸を押さえている。
 史実では……太史慈がいた頃は、揚州牧に任命されていた時期か。兵数数万と言うが、孫策には蹴散らされた。許劭の進言をいれて豫章へ行くが、そこで病没。享年四十二歳。