what i wrote: [2002/09/12]

*W* イメージ→文章 *W*
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[2002/09/12]

 小説を書くときの、話。

 タイトル通り、まずイメージが存在する。

 どこに、と問われても困るので、まあ泉の底に、という程度の象徴的な話でひとつご了承を願いたく。

 で、それを「感じる」わけなのだが、概念としてとらえられることもあり(ex.『真世の王』の設定である、「世界は言葉によって語られた」など)、登場人物が語り聞かせてくれることで世界の秘密を知ることもある(ex. 同書、王城を脱出した王太子の物語など)。

 そうした雑多なイメージを順番に文章へと落としこんでいくことでしか結末に至れないので、ひたすら、それをつづける。

 話が若干逸れるが、「見た」ものに限らず、なんでも「文章化する」習性ができたのは、このためではないかと思う。つまり、訓練しているのである。

 ただし、さすがに四六時中というわけにはいかないので、ぼんやりできるときだけ。ぼんやりタイムの代表的なものは、「情報の文字化」で挙げた歩行中のほか、入浴中・就寝前の布団のなか。後二者は、現実に見えている景色ではなく、想像したものを文章化する作業になる。

 たとえば『真世の王』冒頭部分では、荒野に泣き声が聞こえている、というイメージがまずあった。泣き声が響いているのは荒野である。景色が見える。そこに少女が立っている。これを

荒野の景色が見える。そこに少女が立っている。

 というような文章で受け取るわけではない。漠然とした「イメージ」で受け取ったのは、「荒野に泣き声が聞こえる」という部分だけで、そこから先は、ぼやけた映像である。意識を集中する=文章に直そうとすると、細部が明瞭になる。

 どこか遠くで、子どもの泣き声がする。
 エスタシアは立ち止まり、蜻蛉(とんぼ)玉のように複雑な色味を帯びた眼で、ゆっくりとあたりを見回した。
 凍りついた黒い土。枯れはてて、風雨にさらされた骨と見紛うばかりに白く変色した草。人の背丈ほどもないねじくれた木々の枝はことごとく葉を失い、風にからめとられた奇妙な文字のよう。
 豪奢な黄金の巻毛が、少女の痩せた頬のまわりで波立った。色彩に乏しい景色のなか、その姿は闇夜の灯火のように人目にたつ。
 外套の下から覗く、黒と見紛う濃い緑色のスカートが、風をはらんでばたばたと騒がしい音をたてた。

 泣き声が聞こえているのは荒野である、ではどのような荒野であるか、聞こえているなら誰か観測者がいるはずである。誰が聞いているのか、なにを感じて、どんな格好で、そこにいるのはなぜか、ひとりなのか――場面を構成する諸要素に疑問を投げては答えていくことで、得られる映像が明瞭になっていくのではないかと思う。

 そこにある景色が映像(あるいは、より以上の五感に訴えかける情報)で見えてくるから文字にし、文字にするから映像が明瞭になり、明瞭になるから文字にしやすくなり、以下省略。

 こういう作業が結末に至るまで延々とつづくわけで、わたしの視線がどこか「この世ならざる場所」を彷徨っているようだと言われることが多いのも、たぶんそのせい。すみません。

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