情報の文字化 | ||
---|---|---|
[2002/09/07] | ||
先日、知人と話していて、情報を映像で受け入れることに慣れていると、文字のかたちで情報を受け取るのが苦手なのではないか、と言われた。そこから、 「あなたは映像と文字と、どちらで情報を受け取る方がいいですか?」 という話になったのだが、わたしが口にしたのはその問いへのまっすぐな回答ではなく、こんなものだった。 「ああ、そういえば、映像で得た情報も片端から文字にしようとします」 ▼ ひとりで歩いているときのわたしは、たいそうぼんやりしている。その「ぼんやり」の中身が、情報――外的・直接的な刺激=そのとき見たり聞いたりしたものと、内的な刺激=空想の世界からたちあらわれたもの――を文章に直す作業なのである。 たとえば、くだんの会話をかわした前日の夕方、わたしはひとりで外出した。まずは西に向かって歩いていると、日も落ちた空を、蝙蝠が飛んでいた。 残照の残る空を、蝙蝠が―― 残照に染まる空を―― 暮れ方の空を、蝙蝠の黒い影がせわしげに過った。どこかつくりものめいた明るさが、間断なく羽撃くうすい皮翼から透けて見える―― 帰り道は、東に向いて歩いた。 空は、重たげな雲で覆われていた。すさまじい勢いで、流れてゆく。まるで早回しのフィルムのようだ―― ▼ そのうち、自動車に轢かれて死ぬかもしれないと思う。運転手のかたに申しわけないことにならないよう、できるだけ、気をつけよう。 |
||
prev
next |