この一冊: 第2回『ノービットの冒険』→amazon | bk1
パット・マーフィーといえば、『落ちゆく女』である。雰囲気のある、日常と非日常が二重写しになったような、やや破滅的な——タイトルそのまま、転落していく感覚をみごとに描ききったダーク・ファンタジーで、これは注目作家だ! ……と直感したのだが、その後、ほかの作品が邦訳されることもなく、名作と思っていた『落ちゆく女』自体も、いつしか版元のリストから消えてしまったのであった。
その注目作家の、久しぶりに翻訳された長編作品が、本書である。
タイトルで一目瞭然なのだが、これは『ホビットの冒険』のパロディである。しかも、スペース・オペラ版だ。ビルボ役をつとめるのは「ノービット」のベイリーで、小惑星帯にあるすてきな家に住んでいる。本文から、その住まいについて説明している部分の冒頭を引用しよう。
おそらくみなさんはノービットの家を訪ねたことがないと思うので(その経験がある人はめったにいませんが)、ベイリーの家のことをすこし説明しておきましょう。〈休みなき休息〉は、おもに隕石質の金属でできたM型小惑星で、ほぼ球形をなし、直系は約二キロ、重量はほぼ三百億トン。この小惑星をその中心までくりぬいた、直系約五十メートルの円筒形のトンネルのなかに、ベイリーは住んでいます。この円筒の中心軸のまわりで小惑星が自転しているため、地球の約五分の一の人工重力が発生します。
さて、小惑星のなかをくりぬいた円筒なんてあまり住みよい場所じゃなさそうだと、みなさんは思われるかもしれません。ところが、さにあらず。もしかするとみなさんが想像されたのは、なめらかな金属の円筒ではないでしょうか。なかは金属とガラスの光り輝く壁で仕切られ、どちらを見てもつるつるで冷たく、ピカピカに磨かれている、というような。ところが、実物はまったくちがうのです。
パット・マーフィー『ノービットの冒険』p.12(浅倉久志:訳/2001年/早川書房)
ご存じないかたのために『ホビットの冒険』から引用しておくと、ビルボが住んでいる家の描写は以下のように始まる。
地面の穴のなかに、ひとりのホビットが住んでいました。穴といっても、ミミズや地虫などがたくさんいる、どぶくさい、じめじめした、きたない穴ではありません。といって味もそっけもない砂の穴でもなく、すわりこんでもよし、ごはんも食べられるところです。なにしろ、ホビットの穴なのです。ということは気持のいい穴にきまっているのです。
入口のドアは、マンホールのふたのようにまんまるで、緑色にぬってあり、ドアのまんまんなかに、黄色いしんちゅうのぴかぴかした取手がついています。ドアをあけると、トンネルになった筒形の広間があります。トンネルといっても、煙のとおらないすてきなトンネルで、入口のその部屋には、かべには鏡板、床にはタイル、その上にじゅうたんをしいて、みがきのかかったいすをおき、かべに帽子や外套をかける金具がずらりとならべてあります。
J.R.R.トールキン『ホビットの冒険(上)』p.9(瀬田貞二:訳/1979年/岩波書店)
並べてみれば一目瞭然だが、一方を読んでからもう一方を読むと、にやりと笑うことができる仕掛けである。
どちらも、「そんな種族の住まいなど知らない」だろう読者に向けて「穴だ」と教え、ついで「不愉快な場所だと思われるだろうが、そうではない」とていねいに説明していく。その説明の細部が、『ノービット—』の方では具体的な数値や組成などをともなっているあたり、きちんとスペオペしている。冒頭からしてこうである。作中にはこうしたガジェットが満載だ。
著者はおそらく、よほど『ホビット—』を愛しているのだろう。原型とした作品の愛すべき部分をそこなうことなく、エッセンスを抽出し、軽妙に独自の世界に移しかえているように感じられた。
この移しかえ作業に感じる著者の原作への愛情は、登場人物の多くががらりと趣向を変えて、一見しただけでは『ホビット—』のあのキャラクターだとわからない造形で登場するにもかかわらず、「役割分担や愛すべき性格はそのまま」であることからも感じられる。
移しかえで目につくのは、なんといっても、登場人物のほとんどが女性に変更されていることだろう。魔法使いの老人も女性、ドワーフたちも女性。それなのに、本質は同じ。違和感がないのである。
そしてこの「登場人物を女性に変更したけど、本質は変わらないじゃないの」というのが、フェミニズム系作家である(らしい。なにしろ『ノービット—』か出るまで『落ちゆく女』しか読んでいなかったから、わたしは知らなかったのだが)パット・マーフィーの隠れたメッセージになっているのではないか、とも思う。……と書くと、フェミニズム臭のめだつ、メッセージ性の高い作品かと勘違いされそうなので、あわてて否定しておく。そんなことはないのだ。なにしろ「隠れた」メッセージなのだから。
物語の前面に押したてられてはいないが、この物語を書くことで、著者は自分の信念をひとつも枉げていない。かろやかに遊び、読者をもまたその世界で遊ばせるだけのエンターテインメント性を保ちつつ、「登場人物を女性に変更したけど、本質は変わらないじゃないの」ということが言えるのは、これはかなり、おそろしいことではないかと思う。
そしてもうひとつ、この本の嬉しいところは、もしかするとこれを読んで「トールキン恐怖症」が治る人がいるかもしれない、ということにある。『指輪物語』で挫折した、あの独特のですます訳文がイヤだ——等、何度となく聞いたことのある意見で、そのたびに、もったいない、残念だ、読んでほしいのに、とこっそり思いつづけてきた。
本書はトールキン愛好家のみに向けられたものではない。むしろ、トールキンの作品を読めなかった人にこそ、まっさきに読んでもらいたい。ふたつの引用からおわかりのように、『ノービット—』の訳文が平気であれば、『ホビット—』もまたふつうに読めるはずである(ただし、瀬田貞二訳に限る。わたしは山本史郎氏の訳は未読なので、コメントできない)。
そしてまた、この物語がおもしろければ、同様の骨格をそなえている『ホビット—』を楽しめないはずがない。あらかじめ『ホビット—』の設定やストーリーを知ってしまっている読者にとって、『ノービット—』は、愉快な読みものではあるが、同時に「ここをこうしたのか。これは、アレだよな。するとこっちは……」という感覚がつきまとい、どうしても純粋に物語を楽しむには至らないところがあった。
もしあなたが『ホビット—』をまだ読んでいないなら、それは『ノービット—』を比較考察の対象とせず、存分に楽しむ権利を持っているということである。おめでとう、と言わせてほしい。そして『ノービット—』を読んだら、ぜひつづけて『ホビット—』の方も読んでみてほしい、と。
2001-07-09