what i read: 三国志 四の巻 
列肆の星


書名三国志 四の巻 列肆の星
著者北方謙三 Kenzo Kitakata
発行所角川春樹事務所(ハルキ文庫/時代小説文庫)
発行日2001.09.18(角川春樹事務所/1997.04)
ISBN489456887X

 北方三国志、第四巻。滅法おもしろいので大プッシュ。文庫で毎月一冊ずつ刊行中。

 先日、人と話していてわかったのだが、どうも「戦国武将に学ぶ経営の知恵」(←適当に書いただけなのでそういう本があるかどうかは不明。要するに、イメージとしてそういう題名の一群の本があるという意味あいであり、個別に指摘したいわけではない)のような本が書店店頭にざーっと並んだ時期があったせいで、戦国もの(含む・三国志)というと、オヤジ用の処世訓とかサラリーマンの生き方とかを連想してしまうのだそうだ。
 だから、時代小説を読む気になれないという話である。
 なんとなくわからないでもないが、それは戦国武将等を現代サラリーマン社会にあてはめる形式の読みものそれ自体に抱くべきイメージであって、時代小説は別物と考えた方がいいのでは……。もちろん、サラリーマン的時代小説もあるだろうが、どちらかというとハードボイルドであったり歴史小説であったり男のロマンであったりするので、いちど実物を読まれるとよいのではないだろうか。
 とはいえ、そういうわたしも大した数を読んでいるわけではないのは明々白々である。時代小説ということで限れば、はてしなくちょっぴりしか読んでいないという自覚はある。
 ただ、どうせちょっぴりしか読まないなら、既に評価のさだまった「名作」と呼ばれるものだけを拾い読みすればよく、そうすれば、どうしようもなくつまらないと感じられる本に出会う確率もかなり低いだろうから、そのへんからトライすればよいのではないか。

 ……と、くだんの人に言ってみたが、やはり気乗り薄のようだった。あまり無理強いしてもしかたがないのだけど、そのイメージだけが「読まない理由」なんだったら、もったいないなあ。ほんまに。
 では例によって以下はネタバレである。今回はいつもより簡潔にしたい。と、毎回言っているが、今度こそ。






官渡の戦い
 今回の白眉。あくまでお坊っちゃま育ちであることから抜け出せなかった袁紹と、たたき上げである曹操の対象。大軍を擁しながら負けざるを得なかった袁紹と、寡兵ながらも果敢に戦って勝ちをおさめた曹操の差はどこにあったのかを、双方の視点からじっくりと描いている。
 袁紹の視点からは、袁紹本人の意識ではまったく正当な行為、自然な思考の流れとして彼の采配を描くことになるのだが、それが読者にとって、
「無理なく袁紹自身の思考の流れに沿いつつ、『でもこんなやりかたは、まずいだろ』と思わせる」
 という読みかたができるように書かれているのが、すばらしい。
 読者がうまく感情移入できる登場人物を作るのは、小説を書くときのポイントのひとつというか、まず固めるべき部分である。感情移入しやすくするには、読者に近しいパーソナリティを持ってくるのが簡単である。そして感情移入した読者は、そのキャラクターが愚かであることを嫌う。どうしても、傑出した人物であってほしいと願う場合の方が多いだろう。心理的に同化している以上、それがしぜんな欲求である。
 だから、愚かな敗者の視点から物語を描くとき、それを読者に感情移入して読ませつつ、しかしどうしようもなく愚かなのだ、とわからせるのには、それなりのテクニックが必要である。この作品には、敗軍の将――それも負けるべくして負けたとしか言いようのない人物が何人も出てくるし、それぞれの視点からの語りが何回も書かれているのだが、それを読んでいて不愉快にならず、物語がぶつ切れにもならないのは、どのキャラクターも単なる「負け組用キャラ」でなく、自分自身の人生を生きた、自分なりの考えを持つ人物として造形されているからだと思う。
 たとえば、官渡の戦いで曹操と雌雄を決し、結局は一敗地に塗れることになる袁紹というキャラクターは、傑物として描かれてはいない。しかし、彼なりの考えで生きているのだということは、読めば理解できる。
 名家の生まれだったが、宦官の家系である曹操と親しくしてやった、という恩着せがましい意識を持ちつづけている。名家の生まれだから、自分がトップに立つのが自然だと思っている。最後に信じられるのは血の絆だと思っている。
 要するに、「家」意識の強いキャラクターなのだ。それは、あくまで「個人の能力」を重視する曹操とは対照的である。逆に、「家」意識の強い袁紹の視点が挟まれることで、曹操の「個人の能力」重視の傾向がきわだつ。また、ことあるごとに曹操は宦官の家系だと馬鹿にする袁紹の述懐があるからこそ、曹操が「家」にとらわれない人間になった理由――宦官の家に生まれたことにやり場のない憤懣を感じていること、それをバネにして、逆に彼の美点である「個人の能力を重視して人を登用する」という性質がつくられていったのだろう――を、なんとなく察することができる。
 そして、袁紹は袁紹なりに筋の通った考えをしているからこそ、単なる負け組ではなく、彼の人生を生きていたのだと感じられる作品になっているわけだ。

 三巻までの要約を見返していただければ――ひょっとすると、三国志自体の知識がほとんど/まったくない場合はわかりづらいかもしれないが、いわゆる「三国志」としてイメージされる人物像に、さまざまなエピソードを組み合わせ、各キャラクターの視点から物語の流れを語ることによって、新たな人物像、新たな解釈が生まれていることがおわかりいただけるのではないかと思う。ちょっと無理かな。

 ともあれ、この巻は官渡の戦いを軸にして描かれる。
 袁術を討つべく曹操のもとから遣わされた劉備だが、戦わずしての袁術の死を知り、これを曹操のもとから離れる頃合いと見て離脱。徐州を奪るが、すかさず自ら軍を率いてきた曹操に破れ、別の城で守っていた関羽と合流すべくもなく敗走。関羽は自決しようとするが、張遼の説得で思いとどまり、これも城に置き去りにされてしまった劉備の夫人を守って、曹操軍の客将となることに。この流れはいわゆる「三国志」のままだが、曹操のもとを離れて袁紹の陣へ赴いた劉備と関羽の邂逅という、いわば美味しいシーンは存在しない。美味しいシーンというものは、たしかに美味しいのではあるが、同時に「芝居がかって嘘くさい」という感じもする。だからこそ、北方三国志では捨てられたものであるように、わたしには思われる。
 関羽は曹操のもとで顔良を討ち取るという手柄をたて、その場で曹操の許しを得て戦場から駆け去っている。曹操もそれを許しはしたが、一日遅れでの追討をと命じる。関羽がはるばる劉備のもとへ二夫人を連れて赴くという物語も、その前に立ちはだかる武将が次々と斬られてしまうのも、そこへ張遼が曹操から預かった通行手形を持って馳せ参じるというのも、定番のエピソードではあるが、やはり「芝居がかって嘘くさい」ために採用されなかったのだろう。それに代わるものが「一日遅れで」という曹操の言葉であり、それに対する張遼の言葉なのである。
「ありがとうございます」
「おまえに、礼を言われる筋合いではない」
 関羽は許都へ戻り、劉備の夫人たちを連れて去ろうとするだろう。有能な執金吾である賈ク[言+羽]が、黙ってそれを許すとも思えない。
 一日遅れ。それが、曹操が妥協できるところだった。賈ク[言+羽]にも、妥協させる。それでも関羽が追撃の軍に補足されれば、それは運がないということだ。
「どこまで愚直な男なのだ」
(中略)
「愚直すぎる」
「それが、関羽雲長でございます」
 聞えたのか、張遼が言った。(p.224-225)
 こうして、「派手な見せ場」を、やや地味ではあるが登場人物の心情に沿い、無理なく読者に納得できるエピソードへと差し替えていく作業の積み重ねが、北方版三国志である。だから、この作品は現代的であり、大時代的な絢爛豪華さは持ち合わせておらず、そこには男の情念のぶつかりあいが描かれているのである。
 そのほかこの巻は、孫策の横死などが描かれている。これについても書きたいことはあるのだが、既にじゅうぶん長いので、これにて……。
 ああ、やっぱり長くなってしまった。ダメじゃん>自分

読了:2001.11.02 | 公開:2001.12.06 | 修正:2001.12.24


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