表題作のほか二作をおさめた中短編集。
はじめに書いておかねばならないことがある。と、思う。
急にこの作者の本を手にとったのは、この人が、かつてコバルト文庫で書いていた「彩河杏」だという情報をウェブのどこかで見たからである(どこで見たかはもうわからなくなってしまった……)。
彩河杏氏は、わたしがコバルトのノベル大賞に投稿していた時期に大賞を(たしか)受賞してデビューなさったはずである。わたしはノベル大賞に都合四回応募して、四回めで、一応、もうこれが今の自分のぎりぎりだなあ、というところまで書くことができた。で、これで駄目ならもうプロ・デビューは諦めようと思ったのである。
要するに、百枚(=当時のノベル大賞の応募規定)の原稿用紙を埋めるのに精一杯という段階から、ようやく、百枚を使ってそれなりのお話が書けた、という段階までレベルアップした(と当人が思った)のが、四回めの原稿だったのであった。
その原稿は最終選考にも残らなかった。悔しかったが、まあ、そういうものなんだろうな、と思った。さて、では最終選考に残り、あまつさえ受賞してしまう原稿とはいかなるものか。
その四回めの応募、わたしがプロ・デビューを諦めたときの受賞作を書いたのが、彩河杏という作家だったのである。
季刊の雑誌「コバルト」に掲載されたその受賞作は、たしかお子様ランチがどうとかいうタイトルだった。とくに不思議なことが起きるわけではない、ふつうの学生のふつうの物語で、もうあらすじも覚えていないのだが、あまりのクオリティに打ちのめされ、これに負けたんならまったく文句ないと思ったことははっきりと記憶している。
要するに、サクッとファンになってしまったのだ。
コバルトはデビューすると年に四作は書かねばならないというノルマが新人には課されていたので、彩河氏の新作もそれなりに出版されたはずだが、わたしが記憶しているのは二冊ほどである。うち一冊の『彼の地図』は、なんとなく尾崎豊リスペクトっぽい作品で、ちょっとわたしにはわからないなあ、と思った覚えがあった。
とにかくうまいのだが、地味すぎて、当時のコバルトのカラーからは浮いていたと思う。
気がつくと、その作家の本が新刊として棚に並ぶことはなくなっていた。
あんなにうまい人だったのに、もったいない、とたまに思いだすことがあった。
パーティーで聞いた(姉がイラストや漫画の仕事をしていたので、お供をつとめて何回か出席したことがあったのだ)噂話では、ノベル大賞と同時に小説すばるの新人賞も受賞していて、どちらの編集部でとるかでモメたとかいうことも聞いていた。
そんな風でも、やはり消えてしまうときは消えてしまうのか。と思った。
ところが、である。角田光代という名前で作家活動をしておられるという情報が入ってきたわけである。
調べてみると、九〇年に「海燕」新人賞を受賞。九六年に野間文芸新人賞を受賞。九八年に坪田譲二文学賞を受賞。……むちゃくちゃやがな。作家活動をしておられる、どころの騒ぎではないではないか。バリバリである。
ただし、プロフィールのどこにも「彩河杏」の名はないので、この角田光代という作家が、彩河杏と同一人物であるかどうかはまったくわからない。
そういうわけで、文庫落ちした『まどろむ夜のUFO』を買ってみたのである。これは前述した野間文芸新人賞の受賞作でもある。
●「
まどろむ夜のUFO」
東京でひとり暮らしをしていた「私」のところに、弟のタカシがやってきた。東京の予備校に通うというのである。タカシとは昔、よくUFOの話などしたものだった。それを嫌がった親が禁ずるまで、タカシと「私」の共通の話題、親には入れない共有の空間を作っていたのは、UFOだったのだ。そしてタカシは今もまだ、UFOのことを信じているのだった――。
変な人満載の一本。弟のタカシも変だし、「私」のボーイフレンドであるサダカくんは、一見まっとうに見えるだけなおさら変だ。筋が通った変っぷりをつらぬき通して生きる人々のなかで、「私」だけがそのつらぬくべき「筋」をみつけていない。
相互理解とはなんだろう、とか、これを読みながら考えてしまった。わたしにもしタカシのような弟がいたとしたら、怖いだろうと思う。なぜならタカシの考えることが理解できないからだ。理解できないものは怖い。それは人間の基本的な反応ではないかと思う。鬼神は敬してこれを遠ざける。敬さず馬鹿にするかもしれない。遠ざけるかわりに弾圧するかもしれない。世の中の力関係でパターンは無限に変化する。とりあえず、タカシは弾圧を経験している。姉である「私」は、タカシを理解できるはずだと考えている――が、そうなのだろうか。そして反対に、タカシは「私」をどう考えているのだろうか。
だから「理解できる」ことだけで身の回りをかためているサダカくんの生き方は、ある意味わかりやすい。しかし、それだけでは窒息してしまいそうだ。
すごく読みごたえはあったが、すべてが「私」の主観でまわっている世界という気がして、ちょっとキツかった。
●「
もう一つの扉」
アサコが突然いなくなった。アサコと部屋をシェアしていた「私」は、アサコの部屋に入ってみる。彼女の持ち物を、衣服を、見てみる。今まで、いろいろな人と部屋をシェアしてきた。シェアする相手と深くつきあうわけではなかった。だからアサコのこともほとんど知らない。それでも、部屋を見ればいろいろなことがわかる。いなくなったアサコを訪ねて、彼女がつきあっていた男性も訪れる。彼はアサコが帰ってくるまで彼女の部屋で待ちたいと言いはじめた――。
妙な話。生理的感覚。すごく気もち悪いが、同時にこれは誰のなかにもある気もち悪さのような感じがする。アサコの部屋に入り、彼女の持ち物に勝手にふれ、使い、遂には服まで身につけてしまう「私」のメンタリティが理解できない。と同時に、なんとなくわかる。
彼女には自分がないのではないかと思った。自分がないから、アサコという失われた人物が残していった外郭をなぞる。身にまとってみる。
自分がないから世界もない。すべてから拒絶された虚しく侘しい空間に生きている。へたな怪談よりよほど怖い。
●「
ギャングの夜」
よう子のおばは、いつも自分だけの部屋を探し求めていた。よう子もまた、自分が理想とする部屋を探している。探して探して、探しあぐねている……。
三本のなかでいちばん爽やか(あくまで相対的に)な物語。
自分の居場所を探す……と、ひとことで言ってしまえば簡単すぎてあっけないほどなのだが、ひたすらに探しつづける女たちの「満たされていない」感覚の描きかたがみごとである。
「満たされていない」と最後の感想に書いたが、全編に共通して満ちているのが、「満たされていない」という感覚なのだ。空虚さといってもいいだろう。あらかじめ喪われたものを、それをなくしたことも気づかないまま、無意識に探している「私」たちの物語群であると感じられた。
結局、この人があの「彩河杏」なのかどうかはわからない。若かった頃、これくらい書けたらなあと憧れた物語たちの中身もおぼろにしか覚えていない今、新しい作品と比べてさあ同じ人が書いたかどうか、と判断しようという方が無理である。
だがとにかく、やっぱりなんだか自分には書けないような話だなあ、とは思った。
届かないところで書いている。そんな感じ。
受賞履歴でおわかりかと思うが、ジャンル的には「純文学」ということになろうかと思うので、そういうのが好きな人なら。表題作のUFOはもちろん、二番目の作品に出てくるやたらと葬式が出ているお寺とか、妙に幻想的な雰囲気はある。
なんとなく、内田百けん[門+月]の作品を連想した。
解説は藤沢周氏。全編にただよう幻想性をして「夢」と看破している。なるほど、夢の原理で動いている物語といえば、たしかにそうだ。眠りと死の近しさもとりこんだ、深く長い夢。そんな感覚である。
読了:2001.12.02 | 公開:2001.11.24 | 修正:2001.12.15