ずーっと前に一度だけ書店店頭で見かけたとき、買わずにおいたらそのまま消えてしまった一冊。オンライン書店を使うようになってふと思いたち、検索したらヒットしたので注文。
草壁皇子は夢をみた。モマの夢だ。おばあさまの葬儀のとき、丘の上から葬列を見下ろしていたという鬼の夢だ。熱にうなされ、びいんと鳴る弓弦の音に誘われるように、幼い皇子は鬼を見上げていた。もう少しであの簑笠の影に顔が見えてしまう、もう駄目だ――と思ったときに目が覚めた。
弓弦の音は、吉野の里にもたらされた天皇崩御の報せを受けてのものだった。
草壁皇子の父は大海人皇子だった。天智天皇と謚された伯父君は、息子の有間皇子に皇位を継がせたいと思っておられた。弟の大海人皇子は僧形になり、吉野の里にこもっていた。丹生都比売の加護を受け、ふたたび盛り返すために。その妻である皇女と、息子たちもまた、吉野の里にあった。
草壁皇子はその地で、ふしぎな里人の娘、キサと出会った――
梨木香歩氏といえば『裏庭』(
*1)や『西の魔女が死んだ』(
*2)で著名な児童文学作家である。その実力は誰もが認めるところだと思う。
わたしも好んで読む作家のひとりなのだが、どうも発表年代が古いものの方がより好きなようだと、数冊読んでから気がついた。『エンジェル エンジェル エンジェル』(
*3)>『西の魔女が死んだ』>『裏庭』>『からくりからくさ』(
*4)という感じなのだ。
無論、『西の魔女が死んだ』は万人に推薦できる優れた作品であるし、『裏庭』はすばらしい力作であることに異存はない(ただ、「力作」過ぎて読んでいて少々疲れたのも事実ではある)。
どちらも読んで感動して泣いたりしたのではあるが、その後探して読んだ『エンジェル―』の孕むふしぎな感覚――危機感とでも名づければよいのだろうか、一歩も踏みはずすことを許されない張り詰めた雰囲気の方が、これも探して買った当時の最新刊『からくりからくさ』よりずっと好ましく思えたのである。
で、それじゃあそのあと出た『りかさん』(
*5)を買うより、前にちらりと目撃してそのまま手に入れられずじまいだった『丹生都比売』を読んだ方がよいのではないか? と思ったわけなのだ。
結果、これが大当たり。
とにかく読みはじめてすぐ、導入部の情景の美しさにうたれた。例によって導入部オタク(最近そういう性質があることが判明した。我ながら「なんだそりゃ」ではある)の要求を満たす、すばらしい文章。以下、p.7〜8から引用する。
草壁皇子は夢を見ています。
空気が、びぃぃんと張りつめた秋の野を、おばあさまのお葬式の列が音もなく通ります。
世界は冴え冴えと澄み渡り、その果てまでも見渡せそうなぐらいです。けれどこの秋の野は、どこまでもどこまでもただ刈萱の茂りゆくばかり、行列の音もなく進みゆくほか、動くものとてなく、不思議な明るさに隈なく満たされておりました。
この明るさは日輪とは無縁のもののようでした。皆の足元には影すらできておりません。
……日のもとに生きる、すべてのものには影ができるさだめ、と菟女は言っていたのに。
これほど静かで明るいのに、この秋の野には、少しも心休まる感じがありませんでした。それどころか、細い細い氷の糸が、縦横に空気に織り込まれているように、身の引き締まる思いがいたします。
このように、凍り付いたような明るさがあまねく世界を覆っているのは、殯の悲しさからではなく、おそらく緊張のためだろう、と草壁皇子は思いました。
くまなく明るいばかりの野をしずしずと進む葬列のふしぎな美しさと恐ろしさに、とにかく魅了された。この緊張感は全編に漲っていて、これは草壁皇子が自身を心弱い者と感ずるのとは裏腹に、彼の置かれた立場のあやうさ、それを根底から支えてくれるべき存在である親の恐ろしさを直視するその弱さゆえの強さから、深みのある、たしかなものになっている。
幻想的なシーンの美しさは圧倒されるばかりである。丁寧語でゆるりと語られる、雅な人々の心の奥に潜んださまざまな名状しがたいもの、神と人が近かった時代の空気を今に伝える佳品。誰にでも無条件にすすめられるというものではないが、こういうものが好きな人にはたまらない一冊であるはずだ。
殊に、丹生都比売顕現シーンの迫力、清澄な世界の提示は滅多に見られるものではない。
思いあたるふしがある人は、ぜひとも入手していただきたい。こっそりと、本棚に並べておきたい一冊である。
余談ながら、あとがきで、本書の構想に大いに貢献したとふれられている著作だが、その著者である吉野裕子氏といえば、拙作『NAGA』(
*6)を書くときにお世話になった『蛇 ―日本の蛇信仰』(
*7)の著者でもある。非常に明快な文章で、豊かな発想に満ちた独自の論を展開する本を書かれるかたである。古代日本ファンならぜひ読んでみてもらいたいと思う。
- *1『裏庭』
- これは文庫版。わたしはハードカバーで買って読んだ。ハードカバーは滅多に買わないので、かなり「意を決して」買った記憶がある。
→感想
- *2『西の魔女が死んだ』
- 今年文庫化されたが、わたしはこれもハードカバーで買った。もうみんな文庫に買い替えようかなあ。ハードカバーより文庫の方が短編も入っていてお得かもしれない。ただし、余韻が薄れるとか壊れるとかいう理由で、文庫に短編を同時収録したことを批難する向きもあるようだ。難しいね。
→感想
この他、FSFの「本屋の片隅」にもレヴューを書かせてもらった。
- *3『エンジェル エンジェル エンジェル』
- 女の子と、死を間近に控えたおばあちゃんの若き日の物語が交錯する。ふしぎなバランス感覚だったと思うが、ずいぶん前に読んだのでちょっと自信がない……しかも本棚のどこにも見当たらないし。どこに行っちゃんたんだよぅ(泣)
- *4『からくりからくさ』
- ハードカバー。ふしぎな人形を介して運命が結ばれた女性たちの物語。手仕事を介してなんとなく寄り集まった彼女たちに、実はほかのつながりもあった……という話である。
→感想
- *5『りかさん』
- ハードカバー。出版されてすぐは買うつもりだったので、けっこう探したのだが、近所の書店ではどこにも置いていなかった。一応、ターミナル駅の大きな本屋までは探しに行ったのだけれど……。そうこうするうちに、そういえば『からくりからくさ』もそんなにすごく面白いとは思わなかったなあ(=標準はもちろん超えた「おもしろさ」なのだが、ハードカバーで買いたいか? と考えるとけっこう悩む。わたしはほんとうにハードカバーの本を買わない方なのだ)……ということに気がついて、購入見送り。
梨木香歩氏のファンのあいだでの評判は上々のようであるから、これも一定の水準はクリアした佳作なのだろうとは予測できる。
- *6『NAGA 蛇神の巫』
- 現代日本を舞台に、古代日本神話を微妙にからめた話。えー……いろいろ失敗してます。すみません。
→紹介
- *7『蛇 ―日本の蛇信仰』
- 前出『NAGA』のなかで、民俗宗教学をやっている敬滋の蛇神関連の蘊蓄台詞は、この本で得た知識を援用したものである。蛇神信仰に興味をもたれたかたは、御一読あれ。非常におもしろいし、文章もクリアで読みやすい。
→感想
読了:2001.09.29 | 公開:2001.11.13 | 修正:2001.12.28