上巻のつづき。
ルージャンは後悔していた。
あの日、ペチカをはじめて見た日。心細げにこちらを見ていた少女を守ってやらねばと思ったのに、まわりに迎合していじめる側にまわり、いつしかそれが当たり前になっていた。ペチカがいなくなり、彼女の燃やされた家を見てはじめて、ルージャンは気がついた。
ペチカに謝りたい。もし少女が生きているなら――。
そうして少年は旅に出たが、まだペチカに謝れずにいる。もう二度と会えないかもしれない。伝説の天才が設計した水上都市で煙突掃除の仕事をこなしていたルージャンは、市長から街の時計塔に登ってくれないかという依頼を受ける。もうじきだいじな祭の日だというのに、時計塔の時計がとまってしまったのだ。
ルージャンは時計塔に登り、そこで奇妙な生物をみつけた。それが、ルージャンの運命をふたたびペチカに引き寄せることになった。
うわあー。いやあー。泣けるなあー。
相変わらず心の片隅のどこかで「バランスが〜」と嘆く気もちはあるが(このへんは
上巻の感想参照)、この物語がおもしろいということに異存はない。
ファンタジーの持ち得る特性のひとつに、あり得ざる、しかしこのうえもなく幸福なヴィジョンへの到達、というものがあると思う。
たとえば、これは孤独な少女ペチカが不幸に次ぐ不幸にうちのめされて、そのまま雪の中で死ぬ――という当たり前の、ありそうな現実を考えたとき、その死の直前に彼女が到達し得る幸せな幻影と考えられなくもない。
そんなことを考えなから読んでいた(これは、トールキンが語った妖精物語についての言葉「逃避と脱出は違う」という表現に似ているかもしれない、と最近考える。現実からの精神的な脱出が、ファンタジーである。上のたとえに登場する「死の直前に見た幻影」というのは、まさに現実からの脱出である。死という現象のどうしようもなさをやわらげ、自我にそれを受け入れさせるための救いとなるヴィジョンは、こよなく美しいファンタジーたり得ると思う)。
もっとも、ペチカの生い立ちを考えれば、あの時点で彼女が描き得る「幸せな」ヴィジョンの中に、ルージャンやフィツの入りこむ隙などなさそうである。ペチカは想像力の乏しい少女だった。心の底にどうやら残しておけたあたたかみは、母の記憶だけだった。ペチカが死の直前、暗く辛い現実から逃れようと描き得た「ファンタジー」は、暖かい「お母さん」が迎えに来ることだけだったろうと思う。
してみれば、『童話物語』に描かれたペチカの冒険は、やはりペチカが生きてこそ、生き延びて自分自身のあらたな経験を積み重ねてこそ、生まれ得たものなのだ。
それだからこそ、この物語は読む人に勇気を与える。世の中は捨てたものじゃないと思わせる。利己的でも、自分勝手でも、それでもそこに在ることのすばらしさを感じさせてくれる。
いい話だなあ。
読了:2001.08.13 | 公開:2001.08.20 | 修正:2001.12.21