はじめにおしらせ。FSF@niftyで「チェンジリングを語る」という期間限定ネタバレOK会議室が開催されているので、@nifty会員のかたは覗いてみてくださいというか、ぜひ書きこんでくだされ。
大間抜けをさらしたサイン本は発送済み。うさぎの絵入り。
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前回のつづき。自分が「これはファンタジーではない」系の発言を今までにしてきたかどうかの検証中。過去の文書に大量にリンクしているので、すべてお読みになるおつもりのかたは「リンクを新しいウィンドウで表示(←Netscape方言しかわからぬご無礼をお許しあれ。同種の機能はほかのブラウザにもあると思うが、正確なメニューまではわからない)」なさった方が効率的であろうと思う。
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- ●偏狭なファンタジー観[1999/01/30]
- ジャンル定義の話をするのがいかに面倒くさいか。前回書いたように「これは※※である」という感覚は個人の価値観に深く依存するとわたしは信じているが、だからといって、開示したらハイそれまでヨ、と都合よくはいかないということも思い知っている。それゆえに、ジャンル定義を開陳することは面倒くさいなあ、いっそジャンルへのこだわりなど自分のなかになければ楽なのに、というようなことをぼんやり語っている。これが、自分が書いたなかでは、わりと「感じが悪い」文章ではないかと思うが、どうだろうか。
- ●原理主義 [1999/10/30]
- 前述「偏狭なファンタジー観」と同じかそれ以上に、コアでない人には「感じが悪い」のではないかと推測できる文章。ジャンル定義をしたい欲望はどこから来るのか、またファンタジーは全般に「見下されている」感じがあるかも、など。たしかこのすこし前に、誰かにいただいたなにかの同人誌(すみません、どこに置いたのかサッパリわからず確認不能。捨ててはいないはずだから、ぜったいに家のなかのどこかにあるのに)で、「ファンタジーはSFのヒエラルキーで最下層にある」という文章を読んだ記憶があり、それを見て、「そりゃファンタジーはSFじゃないからSF基準で考えれば最下層でもしかたないだろう」となにげなく思い、一週間ほどしてからようやく「あっそうか、世間ではファンタジーとSFはひとくくりなんだ」と気がついたりしたタワケ者はわたくしであり、ここに白状しておく。
- ●「和製ファンタジー」を巡る一連の流れ
- 上掲「原理主義」は和製ファンタジーのルーツと発展について、盛り上がっていたこともあって書かれた一連の文章の一部である。和製ファンタジーについては、【ありさとの蔵】で、年表まで作られていた(この年表は、去年のSF大会のパネルで使わせていただいた)。【うさぎ屋本舗】上では、「和製ファンタジー」[1999/10/27]、「原理主義」[1999/10/30]、「ヘナヘナ」[1999/11/02]あたり。
- ●さらにその個人的背景
- わたし個人がファンタジーとはなにか、日本人がファンタジーを書くことについて考えあぐねていたのは、その夏、下読みで大量に「和製」ファンタジーを読んだせいもあったと思う。ファンタジー論議の伏線とも言うべき経験。下読みという仕事は、このへんをこうすればいいのにという意見も感想も具体的には外に出せないので、ストレスが溜まるようだ。下読み期間中の漠然とした心の動きは、「入江く〜ん」[1999/08/18]、「異世界語翻訳」[1999/08/21]、「情熱の住処」[1999/08/24]、「中華系」[1999/08/27]あたりに書かれている。
- ●その後のファンタジー談義
- 11月は休んで12月にまたファンタジー談義。「読み手の歴史」[1999/12/21]で、上に書いた「SFとファンタジーは別」という自分の感覚にふれている。次いで「曖昧な」[1999/12/24]でファンタジーというジャンルの定義の曖昧さ、それこそ「なんでもあり」のような現状にあらためておどろき(鈍い……)、前回紹介した「たとえば」[1999/12/29]では、掲示板上の話題をまとめている。
- ●ワタクシ的 [2000/01/05]
- 年が明けてから「あれは違う、これも違う」ではなく「これが自分にとってのファンタジーだ」をあらためて書いておく必要をなんとなく感じ、書いてみたのがこれ。わたしが書くところの「象徴が生きている」云々は、SFの人が言う「センス・オブ・ワンダー」に近いかもしれないと感ずる。マジック・ワードである。
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わたし自身はコアなファンタジー愛好家だからして、読むにも書くにもコダワリがある。それは当然のことだ。が、同時に、コダワリを異にする人がいることも間違いだと思わないし、なんらこだわらない人がいても、それもべつにかまわないと思う。
残念だったりムッとしたりトホホな気分になったり脱力したり、いろいろ感想は持つが、違うこと自体は悪くない、むしろ好ましいことではないかと考えている。多様性こそがジャンルを生かし、あるいは解体する。特定のジャンル名で呼ばれる作品群が新たに生まれつづける限り、そのジャンルは「生きている」のだと思う。それらがどこか遠くへジャンルを運び去り、その名の持つ意味が変わっていったとしても、死んでしまうよりは生き延びてほしいと希う。
個人的に望ましい方向に向かってほしいという願望があるのは事実だけれど。
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