約束 —真世の王・外伝—

3

 クルヤーグが王都へ出たのは成人と同時、十六のときだった。
 別段、行きたかったわけではない。自分は領都にいない方がよかろうと思っただけだ。
 成人する日が近づくにつれ、領王位はやはり前領王の御血筋にあたるクルヤーグ様が……と匂わせる輩が訪れるようになった。ソグヤムはまだ子どもだったし、譜代の家臣はクルヤーグに同情的な者が多かった。その気になれば、容易に転覆できそうだった。
 あやうい、と感じた。
 彼自身にその気がなくとも実現しそうなほどの、あやうさだ。
 理屈ではなく、肌で感じた。自分がここにいては、騒乱の元になる。
〈王の剣士〉を目指そうと思ったのは、それなら彼が月白領を出ても、万人が納得すると踏んだからだ。
 クルヤーグは剣が好きだった。筋もいいと褒められていた。若者なら〈王の剣士〉に憧れる時期がある。実際、彼にもそうした想いがなかったわけではない。
 心を決め、領王の許可を願った。
 領王は、王都での政争に負けたと噂されていた。追い落とされたのだ、とささやく者もいた。同情を装いながら冷たい口調は、嘲笑を含んでいた。
 クルヤーグには、叔父が世に棄てられたのでなく、世が叔父に棄てられたように思われた。
 跪くクルヤーグの肩にふれ、領王は彼を立ち上がらせた。間近で並べば、わずかに叔父の方が背が低い。
 ソグヤムに似ている、とそのときは思った。眼の色が、と。
「そなたは〈王の剣士〉になりたいのか」
「はい」
 領王の表情が翳った、とクルヤーグは見た。だが、それは一瞬で消えた。
「そなたの思うがままに生きるがよい。それが、我が願いだ」
 領王妃が居合わせたかどうか、クルヤーグは憶えていない。ソグヤムはその場にいて、兄上、と彼を呼んだ。
「遠くに行ってしまうの?」
 不安げに尋ねられ、しかしクルヤーグは安心させるための偽りを語りはしなかった。
「そうです」
「もう、戻ってこないの?」
「またお会いできますよ、殿下」
 ソグヤムは両手をさしのべ、クルヤーグは幼い太子の前に跪いた。
「約束だよ」
「はい、かならず」
 ソグヤムの微笑は領王妃に似て、陽射しに溶ける淡雪のように儚げだった。
 領王は、兄王に宛てた紹介状を持たせてくれた。王の威光をもってしても、クルヤーグが〈王の剣士〉にとりたてられるまでに、二年が必要だった。その間、領王が諸侯に根回しをしてくれたらしいと、あとで知った。運よく欠員が出たこともあり、十八でクルヤーグは〈王の剣士〉となった。
 訓練も怠りなくさらに腕を上げ、〈王の剣士〉の名に恥じぬ実力を備えた。だが、どこか伸び悩んでもいた。
 御前試合など、ここ一番での勝負運に欠けるところがあるのだ。
 仲間にも、お前は運がない、とよく笑われた。練習場では最強だ、と冗談めかして評されたこともある。
 ——運だろうか。
 疑いながらも彼は、稽古に打ちこむことしかできなかった。
 たまに、ソグヤムが手紙を寄越した。子どものくせに、長い文章を達者に書いた。伝えてくるのは他愛のない日常だ。家令がうるさいとか、母上になにか差し上げたいのだけどとか、乗馬の訓練を始めたが馬にはどうして人間の言葉が通じないのだろうとか、〈物語師〉が来たけど下手だったとか、〈本〉が欲しいので送ってくださいとか。結びだけは、かならず同じだった。
 ——父上が、なにか不足はないかと訊いておられます。
 その手紙とともに、小遣いが送られて来るのだ。〈王の剣士〉の給金で衣食住はまかなえる。不足などあろうはずもなかった。
 市場で適当なものを見繕って、月白領へ帰る使者に持たせた。なにを買ったのかは、覚えていない。適当に、手紙の文面に合わせたものを贈ったのだろう。領王妃にはマントの飾り止めを、ソグヤムには上質の紙を、家令にもなにか贈った気がするが、ほんとうに忘れた。
 一回、剣士長に訊かれたことがある。
「お主はその従兄弟を恨んだことはないのか」
「ありません」
 即答した。迷いなどなかったからだ。
「奇特なことだ。こと権力が絡むと、家族の絆など意味をなさん」
 苦い経験でもあるのか、剣士長は不愉快そうに顔をしかめた。クルヤーグはふと違和感を覚え、つぶやいた。
「家族、と言うより——」
「ん? なんだ」
「いえ、つまらないことです」
「いいから言ってみろ。途中でやめるのはよくないぞ。おれが気になる。気になり過ぎて、お前を一対一の稽古で叩きのめしたくなる」
「稽古をつけていただけるのは光栄です」
 無難に答えると、剣士長はふんと鼻を鳴らした。笑ったのだと思う。
「では稽古をつけてやるから、ちゃんと話せ」
 いきなり斬りかかられ、クルヤーグはすんでのところで躱した。
「剣士長殿、真剣ですが」
「ここは練習場か? 警備のお役目に、木剣だの刃を潰した剣だの持ち歩くわけにはいかんだろう。それに、この程度を躱せぬ者が黒鞘を拝受できるかね? さあ話せ」
 たしか、深夜勤。玉座の間の警護だったような気がする。通りかかる者すらいない。
「わたしを動かすのは家族の絆ではない、と思ったのです」
「家族ではない? では、なんだ」
「たぶん、国を想う心ではないでしょうか」
 東方月白領は、彼の故郷だ。たいせつに想うからこそ、国を出たのだ。
 領王一家は家族であって、家族ではなかった。むしろ家族であれば、もっと憎んだり恨んだりできそうな気がした。かれらは、あまりに遠かった——幼いソグヤムでさえ、遠く感じられた。
「それもまた、別の意味で難儀な話だな」
「そうでしょうか」
「お主が勝てぬのは、そのせいだ」
「はい」
「おいおい。はい、ではなかろう、はい、では!」
 苛立たしげに叫ぶとまた、するどく斬りつける。クルヤーグもまた避けた。次は剣を抜いて応戦すべきかと考えながら、とりあえず体さばきだけで躱した。
 剣士長は一瞬で気配が変わる。暢気に世間話をしているかと思えば、瞬きひとつのあいだに闘気のかたまりになる。柔軟なのだ。
 誰だったか、剣士長の技量をして伸縮自在と評していたが、たしかにその表現がぴたりとくる。クルヤーグ自身の無骨な剣とは違う、懐の深さを感じた。
「わかっていて答えたのではあるまい、どうだ」
「はい……」
「特別に教えてやるから、まあ聞いておけ。聞かせたからといって解決するものでもなかろうが、黙っているとおれの寝覚めが悪い。まずひとつ、お主はもっと強くなれる。ふたつ、お主が試合で負けるのは、自分が勝つのを正しいと信じきれていないからだ。そりゃ負ける。当たり前だ。みっつ、その理由はお主が自分自身を重んじていなことにある。すなわち、お主は誰のことも大事に思っていない」
 一気に告げて、剣士長は剣尖をクルヤーグの鼻先に突きつけ、よく考えてみろ、とつづけた。
「人が戦うのは人のためだ。自分のためでも、自分より大切な誰かのためでもかまわん。お主には、それがない。だから、十分に戦えんのだ」
 クルヤーグは考えた。なんとなく、問題の核心を言い当てられたという気はした。
 自分を大切に思ったことなど、ないのだ。
「しかし、では……では、わたしはどうすればよいのでしょう」
「難儀だと言っただろう。頭でわかったからといって、では今日から自分が大事です、とはなるまい」
「はい」
 剣士長はにやりと笑った。そして、困った奴だな、と言った。
「おれはな、物事は、なるべくしてなるようになると思っている。今日の明日のというわけにはいくまい。だがな、お主がつねに心にかけ、自分自身を変えようと思い定めていれば、きっと、変われる」
 とりあえず、そうだなぁ、と剣士長は剣を鞘に収め、肩をすくめた。よし、こうしよう。
「思い惑う部下を導くのは剣士長の務めだ。そうは思わんか」
「ありがとうございます」
「いいから同意しろ」
「はい」
「では、人生の楽しみかたを覚えに行こうか」
 どうせ、こんなところを守っていても意味はない、といきなり持ち場を離れたのだから、おどろいた。
「しかし、剣士長」
「やめろやめろ、これから遊びに行くというのに、そんな呼びかたはやめろ。名前で呼べ」
「しかし、剣……フィアラス殿」
 おさめたはずの剣尖が、一瞬で鼻先に来る。クルヤーグは冷や汗をかいていた。
「責任は、おれが取る。いいか、人生は楽しむべきものなのだ。責任が負える範囲でな」
 結局逆らえずに城から連れ出され、酔い潰された。フィアラスはべらぼうに酒が強かった。
 酔わされて、喋らされた。ほとんど尋問だ。彼が前領王の直系であることは剣士長も知っていたらしい。だが、母が産褥で死んだことは初耳だったようだった。なるほどなぁ、と剣士長は眼を伏せた。
 黙っていると、深遠な真理に想いを馳せる賢人のように見えた。
「お主は、女を作れ」
 口を開けば、ご託宣はそんなものだった。
「嫌です」
 子でもできれば、またきな臭い話になる。即座に断ると、次のお告げがくだった。
「では、まず約束でも守ってこい」
「約束……ですか?」
「そうだ。約束したのだろう、領王の太子と。また会えると」
 そんなことまで、クルヤーグは話してしまっていたようだった。
「ですが——」
「無駄な陰謀を未然に防ぎたいなら、お主とその殿下のあいだに亀裂があってはいかん。それはわかるか」
 言われてみれば、その通りだった。
「わかります」
「次の月に、東方月白領の親衛兵の入れ替えがある。お主を推挙してやろう。ただし、短期間で戻らせるぞ。まだ鍛え終わったわけではないからな」
 クルヤーグは答える言葉を持たなかった。親衛兵として故郷に帰ることは、意識になかったのだ。
「同じ太子でも、王太子殿下とは違うんだろうなぁ。おい、従兄弟は今、何歳だ」
「たぶん、九歳かと……」
「若いなぁ」
「はい」
「お主が言うな。自分も若いくせに」
「九歳に比べれば年寄りです」
「お主が年寄りならおれはなんだ? とにかく、従兄弟と仲良くなっておけ。少なくとも、領王陛下はそこのところを理解なさっておいでのはずだ。でなければ、幼い子どもに長い文を書かせまい」
 それはどうだろう、とクルヤーグは思った。ソグヤムの文章は、大人よりよほど達者だ。
 剣士長はまた酒の入った瓶を掲げた。クルヤーグは盃の中身を開けるしかない。世界がゆらゆらと陽炎に包まれていくようだ。
「お主には、辛いこともあろうがな。だが、親衛兵として行くのが、手っ取り早いと思うぞ。お主が真実、そのなんだ、国の平穏無事を願っているのなら」
「嘘ではありません」
「では決まりだ」
 あとで考えてみると、剣士長がまだ新任の剣士とふたりで警護を担当するのも変だし、とくに行事があるわけでもないのに玉座の間の前をというのも不自然だった。
 当時は命じられるままに従っただけだったが、あれは剣士長が彼の伸び悩みに気づき、相談に乗ってくれようと仕組んだ「おつとめ」だったのではないかと、今なら思える。
 破格に強く、言動は奔放だったが、フィアラスは意外に面倒見のよい人物で、人の欠点を見抜く眼識があった。本人の理屈を敷衍するなら、彼は人間が好きだったのだろう。
 彼の強さは、そこに由来していたのかもしれなかった。