約束 —真世の王・外伝—
2
よくやった、とクルヤーグは思った。どうせ誰も褒めてはくれないだろうから、自分で賛嘆した。すばらしい。
少数の護衛のみ許す気だったソグヤムを、説き伏せたのだから。
きちんと陣をととのえて押し出さねば、鶏を見るどころか手前に控える魔物どもに食い殺されるだけだと説明し、最低どれくらいの兵士が必要か、またその規模で出兵すればどれくらいの犠牲が見込まれるか、そこまでして実行する価値があるのかを確認し、再考に再考をかさね、ようやく妥協点を見いだしたのだ。
あとはもう、なるようにしかならない。
夜明け前の暗さに包まれた領都の内壁に、門前に、広場に。武装も明るい兵士たちが並んでいる。
銀粉をまぶした武具に朝靄が宿り、水滴を結ぶ。あまり濃くなると流れ落ちるな、と考えながら、クルヤーグは声をあげた。
「ラギン」
手綱を従卒に預け、壁際に寄る。少し向こうでは、彼が仕える領王がなにか喋っていた。兜をかぶりたくないと文句を言っているようだ。視界が遮られるとかいう御託を並べているようだ。思いきり頭をはたいてやるべきだが、まずはこちらの話をかたづけねばなるまい。
「たのみたいことがある」
「なんなりと」
ラギンは親衛兵、すなわち〈王の剣士〉だ。まだ若いため体力があり、馬の扱いもたくみだ。
「あとふたり選んで、絶対に陛下のお側を離れないように」
領王が鶏の姿を見るための出陣であるということを知っているのは、ほんの数名である。
よりによって、敵陣深くに潜む正体不明の魔物の姿を見るために、領王が最前線に赴くなど、とても公表できない。ラギンを含む騎兵は領王の出陣を知っているが、歩兵はそれすら知らされていない。
「わかりました。しかし……隊長殿は?」
「おれは全体の指揮がある。領王陛下の御身は、お前にまかせた。お前と仲間は、陛下のご無事だけを考えろ。よいな」
「はい」
騎兵には、陣立てのあらましは周知してある。ラギンにたのむのは、その先のことだ。クルヤーグは地図を広げ、ソグヤムがつけた印を示した。ラギンに本隊の陣形を確認させながら、説明をくわえる。
「夜明け前までに、ここに辿り着いてほしい。このあたりで敵とぶつかるだろう。第一で、このへんまでは押しこむつもりだ。第二の陣形で一気に両翼を開き、圧力をかける。お前は陛下をお護りし、飛び出してここを目指す。乱戦になるだろう。第三で退路を作る。合図は陛下がなされる。笛をお持ちだ」
「ひとつ、訊いてもいいでしょうか」
クルヤーグは地図から視線をはずし、ラギンの顔を見た。強いだけでなく、この若者は聡い。だから選んだのだ。
「そこにいる魔物は、動かない」
「なるほど」
「陛下のお話では、周囲に強力な魔物が陣取っている恐れがある」
「わかりました」
脅える様子はない。むしろ、戦場に出るのが楽しみな風だ。ここ数日、押し寄せる魔物を城壁からはたき落とす程度の小競り合いしかなかったから、暴れ回りたいのだろう。
夜は忍び寄る魔物どもを追い払い、昼は毒霧から逃れるため屋内で休む。こんな生活をつづけていれば、誰でも疲弊する。ことに、魔物の囲みが次第に都を囲む壁に迫り、毒霧が濃さを増しているとあっては——せめて戦場で戦って死にたいと念ずるようでなければ、〈王の剣士〉とは言えなかった。
だからこそ、釘を刺しておく必要もあるのだ。
「陛下をお護りすることを、最優先しろ」
「はい」
「敵を倒す必要はない。陛下が望まれる場所までお連れし、無事に領都まで送り届けることこそが、お前の任務だ」
ラギンの口が動きかけて止まり、はい、とまた肯定の返事だけを告げた。どうせ、倒さなくてもいいのかと確認しようとしたのだろう。念を押した。
「魔物を雑草と思え。馬を進めるのに邪魔であれば斬り、それ以外は無視しろ。領王は——そうだな、あれは馬鹿だ。命にかかわるようなことをしそうになったら、殴ってでも止めろ」
ラギンは笑って、わかりました、と答えた。冗談だと思ったらしい。自分でもくどいと思いながら、クルヤーグはさらに言葉を尽くした。
「本気で言っているのだぞ、おれは」
「はい。しかし、あんなに頭の良いかたが」
「頭が良い馬鹿が、いちばん始末におえんのだ。ああ駄目だ、やはり行かないと。よいか、とにかく、たのんだぞ。おれになったつもりで叱り飛ばせ。必要なら当て身を喰らわして、抱えて戻れ」
「無理ですよ、隊長殿」
クルヤーグは眼に力をこめた。
「やれ!」
「はっ。努力いたします!」
よし、と言い置いてクルヤーグは大股に歩を進めると、まだ文句をつけていたソグヤムの頭をはたいた。
「……なにをするんだ従兄弟殿」
「もったいなくも、領王陛下に『兜をかぶらないとどうなるか』の実演をさせていただきました」
「今、本気で殴っただろう」
顔をしかめてつぶやきながら、ソグヤムはようやく兜を受け取り、恨みがましい目つきでクルヤーグを見た。
「おれが本気で殴ったら、お前など首の骨が折れている」
「そこまで本気を出す必要はないのだ」
「そうだ、だから出していない。喜べ、まだ生きているぞ」
「いや、なんだか妙に哀しくなってきた」
ちょっと持っていてくれ、と兜を押し付けると、ソグヤムは黒い馬に跨がった。この馬も、クルヤーグが慎重に選んだのだった。
軍馬は気が荒い。ふだん乗りつけていないソグヤムには無理だ。といって、荷駄馬はもっと危険だ。足が遅いのは致命的だし、魔物に脅えるようでは話にならない。
厩舎長とも相談の上、東涯郡の羊飼いから召し上げた馬を選んだ。東涯郡では、以前から魔物が出没していたという。当然、そこの馬たちも、魔物に慣れている。その上、小柄な割に足は速い。
最良の選択をしたつもりだった。すべて、考え尽くした。
——勝つ必要はない。
クルヤーグは自分に言い聞かせた。負けなければいいだけだ。それだって、ずいぶん困難な仕事ではあるのだが。
乗馬した従兄弟に兜を押し付けると、相手は笑って受け取った。
「君もずいぶん欲がないな。わたしを亡き者にする絶好の機会だ、とは考えないのかね」
くだらん、とクルヤーグは一蹴した。
「陛下が領王位に辟易しておられる以上に、忌避しています。むしろ、死なれては困りますな」
「やれやれ。領王になりたがらないなんて、変なところで気が合わなくてもいいのにな」
従卒が、クルヤーグの馬を引いてきた。
「ありがとう——」
まだ名前が憶えられない。憶えたくないのかもしれない、と考えていると、横から声が聞こえた。
「マニン」
ソグヤムだった。きょとんとしている従卒を見下ろし、領王は笑った。
「いい名だな。我が従兄弟殿が面倒をかけてすまない。よく世話をしてやってくれ」
「は……はい」
名を読んだのだ、とクルヤーグは気づいた。ソグヤムはたまに、こういう芸当を見せる。名告られもしないうちから、相手の名を言い当ててしまうのだ。
しかし、慣れているクルヤーグはともかく、ふつうの者には気味が悪く思えるだろう。
「行け。ここはもういい。自分の支度をしろ」
クルヤーグが声をかけると、従卒は一礼して駆け去った。
「彼も出撃するのか」
「当然だ」
「まだ若いのにな」
ため息をついたソグヤムの手から兜をひったくると、クルヤーグは乱暴にそれをかぶらせた。
「痛いぞ、こら。さっき殴られたところが瘤になったようだ」
「我慢しろ。痛いのは生きている証拠だ」
「従兄弟殿に従うと、生きることは苦行みたいだ」
その通り、とクルヤーグは思ったが、口には出さない。
「そろそろ刻限です」
「わかった。戦闘については、君にまかせたよ」
手綱を引いて、クルヤーグは逸る馬を押さえた。戦だと、わかっているのだ。この獣は戦場に出るのを待ち望んでいる。
——たぶん、おれもそうだ。
あれほど反対したのに、いざ出陣となると気分が高揚する。城に閉じこもったまま緩慢な死を待つよりも、剣をふるって野に果てたい。
結局、彼も武勇を恃む〈王の剣士〉の一員なのだ。
「陛下」
「なんだね」
「かならず、ご無事でお戻りください。あなたは必要なかたです」
クルヤーグの目配せで、老将ダンナガンが騎馬隊を整列させた。背後には、歩兵の第一隊も控えている。
ソグヤムと話せるのは、今のうちだ。
「人を押しのけても生き延びるご覚悟で、門をおくぐりください」
ソグヤムは苦笑した。ラギン同様、クルヤーグが冗談を言っているものととったらしい。
「それはまずいだろう、領王が領民を押しのけて助かっては」
だが、無論クルヤーグは本気だ。人を見ただけで名前を言い当て、魔物の名を読み、未来を書き換えてしまおうなどと考えられる者が、ソグヤム以外にいるだろうか。
「この策戦は、そもそも陛下があの魔物の姿を見るためのもの。ご無事にお戻りになり、鶏めの始末をしていただかなければ、犠牲が無駄になります。おわかりか」
なにか言いかけるように口を開き、しかし、ソグヤムは言葉を呑みこんで静かにうなずいた。
「そうだな。なんにせよ、わたしがあれをこの眼で見ないことには」
「そして、ご無事にお帰りいただけなければ、この出兵は無意味になります。かならずお帰りになると、誰の命よりもご自分のお命を優先なさると、お誓いください」
くどいなぁ、とソグヤムは頭を掻こうとした。当然、兜に阻まれて失敗する。邪魔だ、と毒づいてから、ふと気づいたように尋ねた。
「しかし、そんなに信用がないかね、わたしは」
「ありませんね」
「即答しなくてもいいだろう。しかたないな、努力するよ」
「誓ってください」
「ほんとうに、くどいぞ。何に誓えば満足するんだね」
考えもせず、クルヤーグは口走った。
「亡き叔母上のご名誉に」
一瞬、ソグヤムは唖然とし——しかし、すぐに破顔して、やり返した。
「……では、君はあれだ、奥方に送った首飾りに懸けて誓うんだぞ、かならず生きて戻ると」
「なぜおれが。それにどうして奥本人でなく首飾りですか」
「名誉と似たようなものだろう、どっちも飾りに過ぎん。従兄弟殿にとっては、かなり重要なものらしいがね」
まずいな、とクルヤーグは思った。衆人環視の場で持ち出してよい話題ではない。どう逸らそう、と考える間にもソグヤムは、話を続けている。
「首飾りで思いだしたが、どのみち、従兄弟殿はわたしを裏切らないはずだぞ? 違うかね」
こちらを向いて尋ねたその顔だちは、亡き領王妃に似ていた。明るい眼差しはしかし、彼女のものではなかった。それは、王都を治める至高の人物と同じ色だった。
なぜだ、と不意に疑念が湧いた。なぜ彼はここにいる。辺地で魔物と対峙し、命を危険にさらしている?
王の息子なのに。
——くだらん。
公にしないことを選んだのは本人だ。クルヤーグが感傷的になっても、意味はない。
「今さら念を押されるまでもありません。ご命令いただければ、生きて戻ります」
「ああ、そうだったな」
——誓うから。
今は遠いあの日。必死の口調で、血のつながらない従兄弟の肩を掴んでいた。
——誓うから。おれはお前を裏切らないと、約束するから。
記憶のなか、彼の声は若い。答えるソグヤムの声もまた。
——君を信じるよ、ことによると自分自身よりもね。
「では命じておこうか。わたしより先に死んではならん」
ひょっとすると、自分は今もあのときと同じくらい、真剣に見えるのかもしれない。
「ずいぶん期間が長そうですが、気のせいですか」
「一回の命令で手間が省けてよいではないか。わたしも誓っておこう、母上の名誉にかけて。君を長生きさせるためにも、せいぜい生き延びる努力はする、とね」
「そのへんで手をうちましょう」
一礼すると、クルヤーグは騎馬隊の前へ出た。ダンナガンが望楼に合図を送る。
幟が上がった。門が、ゆっくりと開きはじめた。