約束 —真世の王・外伝—

1

 浅い眠りから揺り起こされてみれば、夜はまだ濃かった。
 硝子の火屋の中でたよりなく揺れる光が、彼の上に身をかがめた従卒の影を長く伸ばしている。部屋の向こう端の壁まで。
「太子がお呼びです」
「わかった」
 手早く身支度をととのえ、差し出された黒鞘の剣を腰に佩いた。いつもより、重く感じる。
 疲れているのだ、と思った。
 自分もマントを羽織ろうとした従卒に、寝ていろ、と声をかける。自分がこれだけ疲れているのだ、若い兵士の小柄な体躯にも疲労が堆積しているだろう。主人がいないあいだに休息をとらせた方がいい。 「じき、もっと忙しくなる。そのときに倒れられては困るからな」
 困惑した様子にクルヤーグはおかしみと、かすかな苛立ちを覚えた。自分の癖を呑みこんでいない相手に対すると、いつもこんな気分になる。
「ですが……」
 口ごもった若者の名を呼んでやろうとして、とっさに出てこないと気づいた。
 前任の兵士が魔物に頭を吹き飛ばされてから、五日しか経っていない。憶えても、すぐ忘れねばならぬ名なのかもしれなかった。
 そう思うと問い返す気も失せる。よくないことだと考えながら、曖昧に手をふって議論を終わらせ、部屋を出た。
 歩哨の敬礼にかるく手を挙げて答礼すると、すっかり寝起きの場となった兵舎を出た。星の位置からすれば、夜明けはそう遠くない。だが今はまだ、夜は深く、濃く、領都を包みこんでいた。容赦なく与えられた喪章のように。
 ——思ったより、早かった。
 覚悟はしていたつもりだが、現実に突きつけられるとどうしても、早い、と感じる。心の準備がたりなかった証拠だ、とクルヤーグは苦い想いを噛み殺し、足を速めた。
 来るべきものが来た。それだけだ。
 領王の館は、思いのほか静かだった。衛兵はクルヤーグの顔を見て一礼したのみだ。いつもより人数が少ないのは、奥に詰めているのだろう。
 彼はひとり、暗い廊下を歩きはじめた。途中、家令とすれ違う。
「ご苦労だな」
 声をかけると、家令は静かに頭を下げた。
「恐れ入ります」
「殿下は?」
「お部屋においでのはずです」
「ありがとう」
「お悔やみ申し上げます」
 クルヤーグは無言でうなずき、足を速めた。
 言われるまで忘れていた。自分も、遺族なのだ。いかんな、とまた思う。覚悟が聞いて呆れる。
 目当ての扉の前に至ると、彼は声をかけた。
「おれだ。入るぞ」
 返事はない。かまわず扉を開け、室内に歩み入った。
 中は暗い。クルヤーグは眉根を寄せた。自分を呼んだくらいだから、寝ているはずはない。声をはりあげ、名を名告った。
「殿下? クルヤーグです。どちらに? ……ソグヤム?」
「従兄弟殿か。早かったな」
 くぐもった声は、足下から聞こえてきた。クルヤーグはぎょっとして半歩下がり、急いで扉を閉めた。
「なにをしている」
「いや、なつかしくなってね、なんとなく」
 ごとんと音がして、壁が動いた。扉からそう遠くない床近くの壁石がはずれ、黄色い光がさした。灯火を手にした人影が這い出してきたのは、それからだ。
「なんとなく?」
 訊き返しながら、クルヤーグは差し出された燭台を受け取り、もう一方の手で膝立ちになっている相手を引き起こした。
「いけないかね」
 わずかに眉を上げて問い返したのが、そのへんの悪戯小僧であれば、無論なんの問題もない。
「東方月白領王の嫡子、ソグヤム太子がなされることとしては、少々難があるかと存じますな」
 膝についた埃を払っていたソグヤムは、ゆっくり身を起こした。灯火の黄色っぽい光を受けて、いつもは明るい空色の瞳が、見慣れぬ宝石のようだ。
「ふむ。しかしだな、死者を悼むと、どうしても過去に想いを馳せることになる。それで、なつかしんでいたわけだよ」
 隠し通路に潜りこんだことの説明にはなっていない。が、クルヤーグはいかにも納得したように、うなずいた。
「なるほど」
「予定では、従兄弟殿が来るより早く戻って来ているはずだったのだ」
 思いのほか手間取った、と不満げにつぶやいて、ソグヤムは今度は肩のあたりを払った。見れば頭のてっぺんにも埃がついている。クルヤーグは顔をしかめて手をのばし、それを払い落とした。ソグヤムは気にもとめない。
「ふむ。わたしはあまり縦も横も育ったつもりはなかったのだが、やはり子どものころのようにはいかないな」
「当たり前です」
 この馬鹿が、と言いたいのを呑みこんだ。いちいち口にしていたら、一日中馬鹿馬鹿とくり返すことになる。
「当たり前か」
 うなずきながら、しかし承服しがたいというように首をふり、ソグヤムはクルヤーグの手から灯火を取り戻すと、卓上に置かれた大きな燭台に火を移した。
「こういうときだから、葬儀は略式でかまわんだろう」
「こういうときだからこそ、領民をまとめ上げるため盛大に、という考えかたもあります」
 起き上がったときに感じた剣の重み——疲労は雪のように降り積もり、静かに人々を押し潰す。撥ね除けるためのなにかが必要だ。
「それは無理だ。時間も人手も食料も、到底間に合わん。だが、考えかたは正しいな。従兄弟殿は、なかなか容赦がない」
「ありがとうございます」
「そうそう、褒めているんだ」
 褒め言葉と貶し言葉の区別がつかない者が多くて困る、とつぶやきながら、ソグヤムは暗い窓の外を眺めている。着衣の隠しに手を入れて、近頃ではまともに喋れる相手が少なくていかん、と話をつづける。
 近頃どころか、ソグヤム相手に互角の討論ができる人物など、滅多にいた試しはないのだが。それにしても、答を求めてもいないような独り言の連続は、彼らしくない。
「ちょっと、饒舌かな」
 心の内を読んだように言われ、クルヤーグは静かに答えた。
「まだ口数が増える余地があるとは。不覚でした」
「それは嬉しいね。わたしは、つねに意表をつく存在でありたいと思っているのだ」
「これ以上は困ります」
「君を困らせるのはわりと楽しいよ。知っていると思うが」
 口では楽しいと言いながら、笑みはない。
 ソグヤムは、上着の襞から手を引き抜いた。古びた手紙の束を目にしたクルヤーグは即座にその正体に気づき、従兄弟の目論見を察した。
「駄目です」
「いや、こんなものを残しておいてはまずい」
「いつ必要になるかわかりません」
「……だから、君が来る前に終わらせておこうと思ったんだが」
 無造作に、彼は紙束を机上に投げだした。
「保管場所を,ご存知だったのですか」
「無論だ。母上の考えそうな場所なら見当がつく」
「お父上は——」
「ご存知ないさ。あるいは……そうだな」
 ソグヤムは、クルヤーグの眼を覗きこんだ。
 なにかを確かめようとしているような表情をして。それからふと、くちもとを笑みのかたちに歪めた。
「知っていて、気づかぬふりをなさっていたかもしれん。だが、今となっては真実などわからぬよ」
「陛下は、いつ」
「従兄弟殿を呼びにやる直前だ。ちょっと使いを出すのが早かったかな」
「駄目です」
 また紙束を取り上げたソグヤムの手を、クルヤーグは素早く掴んだ。
「反応がよすぎるよ、従兄弟殿」
「お預かりしましょう」
 ソグヤムは目をまるくした。
「それは駄目だ。それくらいなら、今すぐ隠し場所に戻してくる」
 有無を言わさずもぎ取ろうとしたが、ソグヤムはそれを許さなかった。押さえられたままの手を燭台に近づけようとするので、クルヤーグはあわてて力をこめ直した。
「子どものようなことはやめろ、ソグヤム。駄々をこねるのも、隠し通路を這い回るのも、もう終わりだ。父上が亡くなられた今、お前はもはや太子ではない。おわかりか、領王陛下」
 重々しく相手を呼ぶと、ソグヤムは見るからに意気消沈し、椅子を引き寄せて座りこんだ。手紙の束は、握ったままだ。
「つねづね、おかしいと思っていたんだ」
「なにが」
「位が高くなるほど、やりたいことができなくなる。おかしいではないか」
「責任とは、そういうものです」
「いらないのだが」
「ほしいからと、手に入るものでもありません」
 だから、いらないといって抛つことができるものでもない。まさに今、彼の手の中にある紙束のように。
「これは燃やす」
「いけません」
「燃やす。中身は憶えてしまった。現物があってもなくても関係ない」
「それでは意味がありません」
「意味などあっては困る代物だ。だから燃やす」
「陛下」
「わたしに領王を名告らせたいか? なら、燃やせ」
 ソグヤムは紙束を握った手の力を抜いた。彼の膝に、床に、古びた紙が次々と落ちて散らかった。
 クルヤーグは年下の従兄弟を睨んだが、視線をとらえることはできなかった。
「これが必要になると思うのかね? であれば、その場面を想到してみたまえ。わかるだろう、わたしが王位を要求するのでもなければ、そんなものは必要ない。そして、王都の玉座を欲するのなら、領王ではいられんよ」
 違うかね、とソグヤムは追い打ちをかける。
「月白領王の太子ではなく、王都におわします王様の御子だと明かす書状だ。保管してどうする。いらぬ災いの種になるだけだ」
「しかし——」
「わたしが領王位を襲わぬとなれば、ここで陛下と呼ばれるのは君だということになるぞ?」
 クルヤーグは憮然として答えた。
「誰が認めるか、そんなこと」
「では燃やせ。命令だ」
 投げやりに言うとソグヤムは立ち上がり、窓辺に近寄った。外はまだ暗い。それでも、さっき街路を歩いたときに比べれば、夜の気配は薄れはじめていた。
 もうじき長い夜が明け、長い昼が始まる。
 ため息をついて、クルヤーグは散らかった紙を拾い集めた。
「いいのか」
「なにが。領王位を継ぐことなら、まったくよくないが、よいの悪いので選べる話でもあるまい」
 そのかわり、面倒なことはすべて御免被る、やりたいことをやりたいようにやるぞ、とソグヤムは静かに宣言した。この男のことだから本気だろうが、ではなにを始める気かと考えても、そこまではわからない。
 どうせ意表をついてくるに決まっている。それも、楽しそうに。
 ソグヤムが、ふり返った。
「どうした。まだ燃やさないのか」
「ほんとうに、燃やすのか。これ以外、なにもないのだろう、その——」
 実の父とのつながりを示すものは、と口にしかけたが、言葉にならなかった。
「くどい。燃やせ」
 きつく命じて、ソグヤムは眼を閉じた。頬の線が少しするどくなったようだ、とクルヤーグは思った。
 彼も疲れているのだ。そして、嘆いてもいる……。
 ——なんということだ。
 気づいて、クルヤーグは愕然とした。ソグヤムは、領王の死を嘆き、悼んでいるのだ。当たり前だ。自分の無神経さを、今さらに恥じた。これは、弔いの儀式なのだ。
「早くしろ」
「かしこまりました、陛下」
 クルヤーグは暖炉の前に跪いた。紙束すべてが確実に燃えるよう、ゆっくりと火にくべる。一枚ずつ。
 これを手にするために命を賭ける者もいるだろうに。
 ふと、何年も前に亡くなった領王妃の面影が脳裏に浮かんだ。彼女が存命であれば——嘆いただろうか?
 貴人の筆跡が火に呑まれ、黒く炭化して砕ける。
 ——そなたを遠ざけねばならなかったことを、許してくれ。
 ——わかってくれとはたのまぬ。ただ許してくれ。
 クルヤーグの祖父には男子が生まれず、女子も短命に終わった。その短命だった娘が命と引き換えにこの世に生み出したのが、クルヤーグだ。生まれたときには父も薨っていた。流行り病が、領都を席巻していたのだ。領王である祖父もまた病に倒れ、一命はとりとめたものの、起き上がることすらできなくなっていた。赤子のクルヤーグが生き延びたのは奇跡のようなものだ、と聞かされた。
 あれはたしか、クルヤーグが十歳にならないころだったか。先代の王の息子、つまり王城に君臨する現王の弟が、祖父の養子となるべくあらわれた。彼は、身重の妻を連れていた。
 当時、自分がなにを思ったかなど、クルヤーグはもう覚えていない。ただ、王都から来た若い夫婦を美しいと思い、そのかれらを叔父叔母と呼ぶように言われ、当惑したことだけ記憶している。
 ——遠くにあっても、我が心はつねにそなたのもとにある。
 ——我が子をともない、王都へ来てほしい。
 叔父は、もの静かな人だった。叔母は、いつも遠くを見ていた。おそらく、王都を懐かしんでいたのだろう。あるいは、王都から動くに動けぬ想い人を。
 これらの手紙が届くのを、ひたすらに待っていたのかもしれない。
 ——今は駄目だ。諸侯の監視が厳しい。会いに来てくれても、言葉をかわすこともできないだろう。
 ——我が弟を置いて、そなたと我が子だけが王都へ来ることもかなうまい。不自然だ。
 ソグヤムの父親が誰でも、クルヤーグにとっては大差ない。そもそも、従兄弟というのも名ばかりで、血のつながりなどないに等しいのだから。
 その自分が、これを保管しろと言ってしまう。権力の呪縛は大きい、とあらためて思う。
 ——ラグソルのことなど気にするな。あれを愛してなどいない。我が心は、つねにそなたとその子のもとにある。
 ——疑うなら古い言葉で語ってもいい。物語師に伝言を持たせよう。我が弟とその家族の面前で語るようにと申し聞かせれば、疑う者もいるまい。
 ——そなたの幸福を願い、平穏を祈る。なによりも。
 ——王都に来てはいけない。そなたを護りきることができぬのだ、そなたに死なれるくらいなら、遠くで無事であってほしい。
 ——そなたは生きよ。生き延びよ。我が子も生きて——。
 燃え崩れ、落ちていく文字を追うほど、やるせなさが募る。位の高さに応じて不自由さも決まるのであれば、この文字を綴った人物に、どれほどの自由があったのか。
「ところで相談なのだが」
 背後から声をかけられ、そら来た、とクルヤーグは思った。なにか、とんでもないことを言いだすに違いない。
「なんでしょう」
「鶏の姿を見たい」
 クルヤーグは眼をみはった。ふり向いてソグヤムを見上げ、注意がそれたせいで指を火であぶってしまい、舌打ちしながら手を引いた。あらためて、手放した紙がすべて火に呑まれたのを確認すると、彼は立ち上がり、確認した。聞き間違いではないだろうと思いながら、空耳であってほしいと祈っていた。
「なんと、おっしゃいました」
「夜明け前がよかろうと思うのだが、今朝はもう間に合わない。明日でどうだろう? ある程度は警護の兵がいるだろうが、要は姿さえ見えればよい。大々的に兵を出す必要はないと思うのだ。君の意見を聞きたい、何人くらい——」
 夜明けを告げる狂った鳴き声が荒野に響き渡り、ソグヤムの言葉をかき消した。