CHANGELING - a funeral of WHITE

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 自分は、人並みはずれた身体能力をそなえて生まれたらしい。それこそアェドが言っていたように、力を求めずとも充分強い、という程度に。
 だが、それがどれくらい人と違うかなど、自分自身についてしか知らない彼には、はかりようもなかった。
 たとえば、遠くで針が落ちる音を聞き分けるくらい、彼にはたやすかった。ただ、その「遠い場所」に意識を集中する必要があって、それさえ自在にできるようになればいい。
 だから、警護すべき〈取り替え子〉と距離を置いても、彼は安心していられた。異変があれば聞き取れるように、注意を払っているからだ。
 娘の緊張が度を越せば、まずそれを感じ取る。ほぼ自動的に意識がその場に向かい、敵意の有無を探る。音を聞く。さすがに透視はできないが、音と気配でなにが起きているかを判断できる程度に、彼の感覚は鋭敏だった。彼女に緊張を強いたものを探り当て、対処すべきは対処し、彼が手をくだす問題でなければすみやかに集中を解除する。  たやすいことだった。
 その日、娘の緊張を感じたときも、ほとんどそれと意識する以前に彼は集中し、彼女が通っている病室内の空気を探った。とくに異常はない。人の気配はふたつ、〈取り替え子〉自身と彼女の母にして瀕死の病人だけだ。
 どんな治療も追いつかない勢いで、〈悪神〉の組織は広がっていた。娘の母親の魂を狙った者と、この悪戯を仕掛けたのは、同一人物なのかもしれない。だとしたら、ひどく周到で悪賢い人物だろう。別人かもしれない。別人だとしたら、他の意図があるのか、他の機会になにかしようとしているのか、だ。
 なんにせよ、判断できるほどの材料はない。彼はそこで考えを保留し、索敵に集中した。
 娘が口を開いた。
「でも変じゃない? もし、あたしがね、そういう妄想にとり憑かれてるんだとしたら、お母さんは否定しなきゃいけなかったんじゃないの? 妄想を補強するようなことを言ったらいけなかったんじゃないかな」
 娘の言葉に、彼は多少面食らった。いったい、なんの話をしているのか。妄想?
「そうねえ、頭から否定すると反感を持たれて二度と話し合うこともできなくなるから、いきなり否定はしないけど。でも、もし仕事で美前と出会ったんなら、そういう流れに持って行ったと思うね。そんなものはほんとうは見えないって方にね。……でもね、ここに美前がいる、生きて、感じて、考えてくれる。それでじゅうぶんじゃない。なにが正しい、こうあるべきだって決めつける必要なんか、どこにもない。見えるって言うなら見えてるんだよ。それでいいじゃない」
 娘の母親は、ごく当たり前のことを言っていた。
 なのに、彼は身動きすることもできなくなっていた。
 彼に向かって告げられた言葉ではない。〈取り替え子〉のための言葉だ。
「ほんとは、仕事で会う人たちにもそうやって接したいの。でも、ひとりの人生で、とことんつきあえる人の数は限られてる。『みんなが見える』世界と同じものを見ないで生きるのは辛いことなの。だから、とことん一緒に生きてあげられない代わりに、『みんなが見える』のと似たものが見えるようにしてあげる。それが、わたしの仕事なの」
 病人の手が、動き、そっと娘の手をなでる気配を感じた。
 彼以外の誰にも見えないだろう動き、ほかには当人たちしか知り得ないだろう会話。当たり前のように見聞きして感じとる。彼だけが、それをできる。
「美前なら、いいじゃない。娘なんだもの。死ぬまでつきあえる」
 あまりにも近い死を意識しながら、誰も、そのことについては語らない。病人も、その娘も、そして彼も。
「どんな妄想でも、好きなように考えてくれればいいよ。お母さん、つきあう自信あるもの。美前がほんとうだと思うなら、わたしにもほんとうになる」
 高まっていた緊張がかすかに緩み、あたかも引き絞った弦から矢をはなつかのように、娘の口から言葉がこぼれ出た。
「お母さん……わたし、変なものが見えるの」
 病棟の外で、彼は気を引き締め直し、あらためてあたりの気配を探った。〈取り替え子〉の視力は尋常ではない。彼すら気づかない脅威を悟っているのかもしれない。
「なんだかこう……妖精みたいなものが」
 つづけて口に出された言葉を聞いて、ようやく彼は理解した。
 ——〈妖精の視力〉について、実の親にも話していなかったのか。
 おそらく〈輝きの野〉であれば、〈女神の祝福〉を享けし者ということで騒ぎになるだろうが、ここはあまりに違う。それに、この母親は懐が深い。突き放しはしないだろうと思うそばから、問いが返った。
「それで、美前はどうしたい? その人たちとつきあいたいの。それとも、見えなくなりたいの」
「見えなくなりたい」
 娘は即答した。つらそうな声だった。
 念のため、彼は病室の外へも意識を飛ばしてみた。脅威となりそうなものは、なにもない。〈丘の下の王〉の手の者すら、今日は休んでいるのか、姿がなかった。
 なにも見えないからこそ、娘は勇をふるって言い出したのかもしれなかった。
「美前が話してくれて、嬉しいよ」
「わたしも、……話せて嬉しかった」
 もはや〈取り替え子〉が直接の脅威にさらされているという可能性はない。彼は意識を病室からひき戻し、暗い空を見上げた。ついさっきまで、雲の切れ間から太陽が覗いていたのだが、今はもう見えなくなっている。今夜は雨か、ひょっとすると雪が降りそうだ。
 ——どうしたい、か。
 少し、彼はふしぎに思った。彼女はつねに狙われているが、実際に危険な目に遭ったことなどないはずだ。すべて彼が撃退しているのだから。自分が〈取り替え子〉であることも、意識はしていないだろう。
 それでなぜ、〈妖精の視力〉を負担に思うのか。
 彼も〈妖精の視力〉を身にそなえていたが、それを呪ったことなどない。
 ——いや、ほんとうにそうだろうか。
 自分は強く生まれた。人より優れているのが当たり前だった。ひとりで氏族を背負って立つべく育てられた。
 そのことを、喜んでいると言えるだろうか。呪ってなどいないと、断言できるだろうか。
 ——では、別の答が必要だな。自分で考えさせるが吉、という奴さ。
 考えてきたつもりだった——だが、考えてなどいなかったのだ。
 彼は立ち上がり、冷えた身体を暖めるために、病院の周囲を歩きはじめた。
 ——力など、ほしくなかったのだ。はじめから。
 だから、力を求める者の気もちがわからなかった。ごく単純なことだった。