デビュー作「神様」を含む短編集。
- ●「神様」
- 三つ隣の部屋に越してきたくまと散歩に出る話。うららかな日差し、くまと人がともにいるという違和感、なんとなく辛そうな雰囲気とそれを上回る「癒され」感覚。ふしぎな掌編である。
これを読んでいて思ったのが、まず、「くま」はほんとうに動物の熊なのだろうかということだった。なぜそんなことを思ったかといえば、村上春樹氏の小説に「鼠」という名前のキャラクターが登場する作品があり、わたしはその「鼠」を、てっきり人と一緒にいても違和感のない大きさの鼠なのだと思いこんでいたからである。『羊をめぐる冒険』を読んだときにはもう勘違いが解消されていたはずだから、その前の短編を読んだときに勘違いしたのだろう。
すこし人形めいた大きな鼠が、目をきらきらとさせ、バーのカウンターに座っている映像というのが、今もくっきりと脳裏にやきついているのである。間違った印象なのだけれど。
で、この物語に登場する「くま」は、ちゃんと動物の熊なのだった。だからこそ、いろいろと苦労もしているようだ。すこし古風な性格で、気配りの人……いや、気配りの熊で、たいへん行き届いているのである。美しくも押し隠された人ならざるものの悲嘆を背景に、のんびりと幸せな午後の情景を描いたスケッチである。
- ●「夏休み」
- 原田さんの畑で梨をもぐアルバイトをしていた主人公が、ふしぎな三匹の動物に出会い、なりゆきで家に連れ帰ってしまう。
やっぱりなんだか坂田靖子氏のマンガを連想するなあ。日常のなかにひょっこりと異形のものが顔をだすその具合が、表題作の「神様」もそうだが、この「夏休み」も、そのまんま坂田氏の絵柄で漫画化されていてもおかしくないだろうと思わされるような雰囲気をたたえているのである。
けっしてけなしているわけでも、パクリだといっているわけでもなく、単に、作品の種類が「近い」ように感じられる、といいたいだけなので、誤解のなきよう。
夜の梨林の風景は、どこか清浄で胸が痛くなる。
- ●「花野」
- 死んでしまった叔父が、たまに姿をあらわす。そして、思ってもいないことを口にしては消えてしまうのだった。
少しずつうすれていく死者は、ほんとうに主人公のもとを訪れているのだろうか。それはただ、主人公が死者を思いだし、その思いだす力がやはり少しずつ弱まっていっているだけなのではないだろうか。
そんなことを頭の片隅で考えながら読んでいて、いや、やはりこれは主人公の妄想ではなく、死者が彼女のもとを訪れているのだ、と思う。
そら豆の味について言及する部分では、ビーグルの『心地よく秘密めいたところ』を連想させられた。あの死者はなにがなんでもこの世にしがみついていようとしていたから、読んでいて痛々しく胸に迫ったが、「花野」の叔父さんはそこまでギラギラとしていない。あるいは、ギラギラとしている部分を見せるのを恥と感じている節がある。おそらく、その双方なのだろう。
いい叔父さんなのだ。
- ●「河童玉」
- 女友だちのウテナさんと精進料理を食べに行き、うっかり寝入ってしまった。すると河童に誘われ、人生相談を受けることに……。
個人的な感覚では、この作品集のなかでいちばん変な話。あちらの方がうまくいかないのでしてと説明する河童は、少しもほんとうに困っているように感じられず(困っていることは困っているのだろうが、たとえて言えば、バイアグラの個人輸入に走るような種類の一途な必死さがない)、恬淡とした境地にあるように見える。
もっともそれを言えば、著者の書く物語に登場する者たちのほとんどは、そうした必死さを持ち合わせない。あるいはおもてには出そうとしない。「花野」の叔父さんがそうであるように。
- ●「クリスマス」
- ウテナさんにもらった壺をこすってみると、「ご主人さまあ、こんにちは。コスミスミコですう」と、若い女が煙とともにあらわれた。そのまま壺に住むコスミスミコと共同生活を送ることに。
この話は好きだなあ。うまく説明できないのだが。「ああ、いいな、好きだな」で思考がぴたりと停止してしまうので、説明するのが困難なのである。コスミスミコの独特の間延びした口調がいい感じなのだが、実際にあらわれたらちょっと困るかなあ。もっと早く喋れ! と言いたくなるかもしれない。
- ●「星の光は昔の光」
- コスミスミコは最近機嫌が悪い。彼女が滅多に出てこなくなるのと入れ替わりに、えび男くんという少年が訪ねてくるようになった。
ゲスト・キャラは毎回入れ替わるんだなあ。というわけで、今回はどうやら複雑な家庭環境になるらしい、えび男くんとの物語。このシリーズは、主人公たちが自力でなにかを成し遂げて事態を変革するとか、そういった種類の話ではない。ただ、やるせなさに満ちた眼差しをかわしあうだけである。
ところでこの「星の光は昔の光」というタイトルを見た瞬間に、なんだか胸が詰まってしまい、一回、本を閉じざるを得なかった。
たぶん中学生くらいの頃だと思うのだが、こうして見上げているわたしたちのもとへ届く星の光は、ずっとずっと昔のもので、今はあの星は既にこの世にないのかもしれないのだと考えると、あまりの無常感にくらくらしたものである。そういう経験をした人は少なくないのではなかろうか? あまり人に話す内容ではないので、聞いたことはないのだが。このタイトルは、そのときの無常感をずばりと突いてくるものだったので、いかんいかん、と一回本を閉じたのだ。
ついでに書いておくが、この人はタイトルのセンスがとてもいいと思う。わたしは好き。
- ●「春立つ」
- 「猫屋」という飲み屋のおばあさん、カナエさんは、若い頃になんども伝承の世界に落ちていったことがあった。そしてそこで、ふしぎな男と暮らしていた。
現代的な怪異譚。と書いてしまったときに予測される作品と、この短い作品がまとっている風合いのようなものは、まったく違うだろうなあ。
神隠しとか、なんだかそういう風なものに遭遇したらしきカナエさんの体験談は、しかし、やはりそこはかとない哀しみを底に沈めているのだった。
- ●「離さない」
- 真上の部屋に住んでいるエノモトさんのようすがどうもおかしい……と思ったら、旅先で人魚を拾ったのだという。
人魚のサイズはちょっと小さめ。人間の大人の三分の一ほど。
これはー、なにを書いても先入観を植えつけそうなので略。前知識なく、淡々と作品集を読み進めたうえで出会ってほしい。
きっと弱い生き物なのだろうなあ、というのがギリギリの感想。
- ●「草上の昼食」
- 「神様」に登場したくまとわたしの、ふたたびのピクニック。ふしぎに明るい景色、のんびりとしたその裏側に押し隠された、なにかはりつめたもの。
この二作に登場するくまは、どうも「癒し系」というような存在であるような気がする。なんとなく、ふかふかしていて、包容力があって、幸せにしてくれそうなもの。
ただ、癒される側はよいとして、癒してくれる側にはどんな負担があるのだろうか。そんなことを考えたりもした。そういう話というわけではなくて、ただ、さまざまな色を垣間見せる景色のプリズムを、ある方向から覗いたらそんな感想を持ったというだけのことなのである。
以上。佐野洋子氏による解説がすばらしくよい。「無意識」という言葉についての随想に近いのだが、いかにもこの作品集の末尾にふさわしいものであり、なおかつ、独立した読みものとしても非常におもしろいと思った。
読了:2001.12.21 | 公開:2002.05.13 | 修正:-