あれはいつだったろう。
薄青い空に消えてゆく白い飛行機を見ていた。
見上げる横顔、やわらかな頬の線を肩が遮って、のばした手、まっすぐに指し示した桜の花びらみたいな爪、その先端に宿る儚い光。
「あっ、守宮さん」
素っ頓狂な叫び声を低い天井が反射した。黄ばんだ蛍光灯が、声の暴力に怯えるように瞬いている。
しぃっ、とたしなめる声と、くぐもったやりとりがつづく。
「だって……だもん」
「だからって……でしょ」
声がした方に、頭を巡らせる。ロビーの向こうでこちらを見ているふたり組の女の子が声の主だろう。だが、見覚えがない。
制服には覚えがあったが、それだけだ。
眉根を寄せていると、右側のひとりが肩をすくめ、観念しましたというようにこちらを見た。もうひとりを引っぱって、歩いてくる。
ちょうど午後二つめの講義が終わったあとの予備校のロビーは、人でごった返していたが、誰もかれらに注意を払わない。
渉まであと一メートル、というところでふたりは立ち止まり、右側が口を開いた。
「あの。守宮さんですよね?」
「だったら、なに」
もうひとり、半端に伸びた髪をくるくると手で弄んでいた方の女の子が、叱られるよぉ、と低い声でつぶやいた。
「あんたが大声あげるのがいけないんじゃない」
「大声なんかあげてないもん」
言い争うふたりを見て、渉はため息をついた。
「さっきの声が大きいかったかどうかで言えば、おれのとこまで聞こえたんだから、けっこう大きかったんじゃない? で、なに」
ふたりは顔を見合わせ、それからまた、右側が肩をすくめた。癖らしい。
「あたしたち、涼子の友だちなんです」
それで、とうながすと、今度は左側が喋りはじめた。
「夏期講習の申しこみに来たんですけど、涼子が遅刻して、なかなか来ないねえって言ってたら、守宮さんがいたから。それで、つい、あっ、……って」
「つまり、用はないわけだ」
左側はうなずいて黙り、右側は挑戦的に渉を見上げた。
「さっきまではなかったけど、せっかくだから、案内してもらえませんか。ここに通ってるんでしょ?」
「見取り図なら、そこの柱にある。パンフレットにも載ってる。パンフレットは——」
渉は事務の窓口の横にあるラックを指さし、あそこ、とつづけた。
普通はこれで黙る。が、右側は引き下がらない。
「あたしたち、守宮さんに案内してほしいんですけど」
渉はちらりと外を見た。硝子の向こう、ビルの外は真っ白にかがやいて見えた。ひっきりなしに開閉をくり返す自動ドアをくぐって、かれらと同じ年ごろの、いわゆる受験生という人種が出入りしている。
今の時間帯、入ってくるのはともかく、出て行くのは浪人生ばかりだ。それを知っていて、制服のまま来たのだろうか。
「待ち合わせは?」
「ケータイがあるから大丈夫」
「この校舎、電波入らないよ。壁と天井が厚いのが取り柄なんだ」
左側が落胆の声をあげ、右側は渉を見上げて微笑んだ。
「実際に通ってる人に聞くと、ほら、パンフレットにないこともわかるじゃないですか」
「案内はお断り。おれ、まだ受けなきゃいけない講義が残ってるから」
「冷たいなー」
左側はポケットから携帯を出して受信状況を確認している。液晶ウィンドウの中でアンテナが三本立っているのが見えた。ねえ、ちゃんと電波入ってるよ、そうだよね、ここ入ったとき確認したもんね、と右側の同意を求める。
右側は、ここは入り口のまん前だからじゃないの? と意見を述べたあと、渉を見て、ちょっと案内してくれるぐらい、いいじゃないですか、と言った。なにが『いい』のか。
「粘るね。ひとつ事実を教えてあげよう。たしかに、おれには涼子って従姉妹がいる。涼子の友だちは、おれにとっては赤の他人。以上」
「でもあたしは守宮さんの名前を知ってるもの。顔も」
渉は肩をすくめて見せた。さっきまで右側の子がやっていたのを、そっくり真似したのだ。左側はそれに気づいたらしく、眼をみはって渉を見た。
「先輩としての助言が欲しいなら言わせてもらうけど、受験には役に立たないから、そんな知識は消去しといた方がいいんじゃないかな。だからこっちも、きみらの名前も顔も、覚える気はないし」
じゃあ、と言い置いて渉は廊下に向かった。
なにあれ、と聞こえよがしな声を後に、薄暗い廊下の奥へ歩を進める。
エレベーターを呼んで、乗り込んだ。古いビルの古い機械だ。動きに妙な重々しさがあって、それが渉は気に入っていた。
同乗者はいない。
上昇する金属の箱のなかで、渉はエレベーターを支えるケーブルをイメージする。映画のなかでは、エレベーターからの脱出シーンというのがよくある。だから、イメージの材料には事欠かない。
眼を閉じて、想像する。想像しているあいだに、エレベーターは最上階へ着く。
廊下のつきあたりまで歩くと、重たい金属の扉があって、外に出ることができた。非常階段を登りきると、そこは屋上だ。
屋上は立ち入り禁止が建前になっていた。理由はあきらかにされていないが、どうせ、飛び降り自殺を警戒してのことなのだろう。自殺者の出た予備校なんて、イメージ・ダウンもいいところだ。
給水塔の土台に寄りかかるかっこうで、渉は屋上にぺったりと座りこんだ。このビルは古いが、このあたりの建物では高い方だ。視線を低くしさえすれば、フェンス越しに見えるのは空だけになる。
空と、時おりそこを過る飛行機だけ。
屋根に登るのが好きだった。
渉がではない。涼子がだ。
守宮の家に遊びに来るたび、梯子をかけて登った。沙久耶は心配してやめさせようとしたが、涼子が頑として登ると主張するので、渉、あんた涼子ちゃんのことを見ててね——となるのが常だった。
それで、渉も自分の意志とは関係なく、涼子といっしょに屋根に登るか、縁側で梯子の番をすることになった。
たしか、渉が中学三年になったとき、涼子は屋根に登るのをやめたのだ。
「だって縁起が悪いじゃない、もし滑り落ちたりしたら」
受験のことを言っていたのだった。涼子の間抜けぶりに、唖然とさせられた。屋根から落ちることを仮定するなら、落ちた当人の身体の心配をするのが先だろう。なぜ渉の受験の方が、さも重大事であるかのようにとりあげられるのだ。
それっきり、涼子が屋根に登ることはなくなった。
携帯が鳴った。ポケットから取り出し、通話ボタンを押しながら耳にあてる。
「はい」
『兄さん? ちょっと、どこいるのよ、今』
「用がないなら切るぞ」
『質問は立派な用でしょ』
「訂正。おれが答える価値があると思える質問でないなら切る」
かすかな逡巡の気配。涼子の息づかいが聞こえる。吸って、吐いて。また吸って、決断した。
『ニュース見た』
語尾が、ほんのすこしだけ上がっていた。
「なんの」
電話口の向こうで、さっきの右側の声が聞こえた。電波入ってるんなら、この建物にはいないんじゃないの、と言っている。
『兄さん、近くにいるの?』
「おまえの友だちに、赤の他人の言葉を簡単に信用しないようにって、助言しといてやれよ」
『……はあ?』
「噴火のニュースなら、見た」
空は妙に霞がかかっているように見える。
硫黄の臭いがするという報道もあったから、風向きはあちらからこちらへ、なのだろう。空が妙な色合いのように思えるのも、あながち勘違いや思いこみでもないのかもしれない。
『あ、……うん』
涼子の声は歯切れが悪い。
「ついでに言っておくと、それがナーガに関係してるかどうかなんて、おれにはわかんねぇからな。尋ねるだけ無駄」
『わかった。ああもう、うるさい!』
後半は、背後で騒いでいる友人たちに言ったらしい。あとでまたかけるね、と言って涼子は一方的に通話を切った。
そもそも、涼子が一方的でなかった試しなどない。いつも、勝手に押しかけてきて、盛り上がったり怒ったり笑ったり泣いたりして、そしてまたどこかへ行ってしまう。電話は実害がないだけマシだ。
渉はいつでもふり回される方だ。そして涼子には、渉をふり回しているという意識はまったくない。
始末におえないとはこのことだ。
あのときは、まだ小学生だったと思う。渉も、涼子も。
涼子が手に紙を持って屋根に登ろうとするので、なにかと思えば、高いところから紙飛行機をとばしてみたい、と言う。
まず上に登れと言ってやった。下から紙を手渡してやる、と。
それが、下で折ってやる、に変更されたのは、屋根瓦の上で紙飛行機を折るという作業が、涼子にはうまくできなかったからだ。
しかたなく、渉は縁側で紙飛行機を折った。たしか、つるっとした広告を使ったような記憶がある。赤や青、くっきりした色合いの印刷が施された紙で、どうせひとつじゃ満足しないだろうと五つばかり折ったところで、それに気がついた。
——まただ。
縁側は庭に面している。庭には倉があった。そして——倉のなかには、なにかがいた。
名づけようもない、なにか。渉をいつかとらえようと身を潜めているもの。
たまに、それは触手をのばす。渉の存在をたしかめるために、倉のどこか暗い隙間から染みだしてくる。
それ自体には意志もなにもない。ただ漠然とした力だ。本体は深い眠りに就いている。その眠りのなかで、渉の夢をみているのだ。
夢の手ざわりはどんな具合だろう。冷気が渉を包む。彼のまわりからすべての光を、音を奪う。世界は消え、渉はひとりになる。
渉はその名も知れぬものの夢にとらわれる。すっかりそのものになってしまう。身動きもできない。声もあげられない。そもそも自分の身体の感覚すらない。
——永劫につづく。
闇。それが、そのものの置かれた世界。
恐怖を感じるには異質すぎる。遠ざけるには身近すぎる。彼はもうそれに慣れてしまっていた。いつか、自分はそのものに捉まるだろう。それのどこが悪い?
「兄さーん」
はるかな高みから降りそそぐ声は、光そのもののようだった。
渉は一気に現実に引き戻され、縁側に寝転んで紙飛行機を手にしている自分を発見した。
「ねえ、そこから飛ばしてみてー」
起き上がり、見上げる。太陽を背にして、屋根の縁から下を覗く涼子の輪郭は、金色にかがやいて見えた。
「届くわけねえだろ」
それでも、手に持っていた紙飛行機をとばす。
カラフルな紙飛行機は、梯子にぶつかって庭に墜落した。
「あー、惜しいー」
渉は折り上げた紙飛行機を重ねて持つと、梯子を登り、涼子の隣に座った。
「おまえ、あんまり屋根の縁から身ぃ乗り出すなよ。危なすぎ」
「だいじょうぶよ」
涼子の自信は根拠がない。押しが強いので、つい信じさせられてしまうだけで、それ以上の効能はなにも持たない。幾度となくそのせいで危ない橋を渡らされて、小学生当時、すでに渉は涼子の言葉を疑ってかかるようになっていた。
涼子がだいじょうぶと言うときは、絶対に、だいじょうぶではない。当人に騙す気がないから、タチが悪い。
「おまえが落ちたら、怒られるのはおれなんだから。気をつけろよ」
渉は顔をしかめ、涼子に紙飛行機を手渡した。念のため、ひとつずつ渡すことにした。ひとつ飛ばしたら次のひとつ。そうすれば、両手離しはしないだろう。
涼子は心底楽しそうに紙飛行機を飛ばした。近所迷惑も顧みず、隣家の塀の向こうを狙っているようだった。
最後のひとつを手渡そうとしたとき、涼子はそれを受け取らず、まじめな顔で告げた。
「それは兄さんが飛ばして」
なんで、と問うと、操縦するの、と涼子は答えた。さすがに口が開いたきり、閉じなくなった。
「いいから、飛ばしてよ」
「……おまえ、紙飛行機ってのは人間の乗り物じゃないってことくらい、わかってるだろうな?」
「なに馬鹿なこと言ってるの」
馬鹿はおまえだと言い返したいところだったが、ぐっとこたえた。とにかく、これひとつ飛ばしてしまえば涼子は満足するのだ。
「いくぞ」
肩の高さにかまえた手を、すっと前に出す。押し出すように、紙飛行機を空にはなつ。
涼子が手をのばした。
「さあ、飛んで」
その声が、魔法のように紙飛行機を追いかけ、包み、持ち上げるのを渉は見た。あやふやな光に似たものが、安っぽい広告紙の飛行機を覆い尽くす。
「いい子ね、もっとよ、もっともっと」
光は見る間に小さな人の形になった。それは紙飛行機の上に悠然と立ち、行く手を見据えている。手綱のようなものが生え、小さな人影はそれを掴んで飛行機の機首を持ち上げた。
「高く、高く」
涼子の声が、飛行機をさらに高く舞い上がらせる。
「……やめろ」
自分の声とは思えないほど、かすれていた。
紙飛行機の上の人影が、ふり返った。それはたしかに渉を見て、笑った。
「どうして? 楽しいのに。ほら、あんなに遠くまで行ったよ」
「降りるぞ。おまえももう降りろ」
えー、と抗議の声をあげる涼子をそのままに、渉は梯子を下りた。
自分だけではなかった、と思った。涼子にも妙な力があるのだ。だが、見えてはいない——渉は見えるだけだ。見えたり、感じたりするだけで、なにもできない。
どちらが始末に負えないだろう。
もちろん、涼子の方に決まっている。
渉は蛇神を宿していたから、蛇神の考えることもだいたいわかった。
あの封じられた空間を破壊するには、おそろしい力が必要であること。それはきっと、地脈を刺激するだろうということ。
わかっていて、それでも蛇神はそうするしかなかった。なぜなら、彼は自由になりたかったからだ。そしてあの女神を自由にしたかったのだ。
自由への渇望は、文字通り、蛇神を狂わせた。渉をも、それは食い尽くした。
今ならわかる。
とても早い時期に、渉は自分の人生を諦めていた。たとえばあの、涼子が紙飛行機を屋根の上から飛ばした夏の午後——倉のなかに潜んでいるものに捉まってしまって、それのどこが悪い、と開き直って考えることができたのは、自分を手放す決意を既にしていたからだろう。
そのときになれば、往生際悪く足掻くかもしれない。でも、それまでは——いずれなにかが彼の身体を要求したら、くれてやればいい、と悟りを開いたふりをするのがいちばん楽だった。
人並みに、いずれ自分が死ぬと思うのは怖かった。
そして自分の場合、通常の死とは異なるかたちでの「なにか」が、そう遠くない未来に訪れるだろうとわかっていた。それが恐ろしくなかったと言えば、嘘になる。
でも、しかたのないことだった。
しかたがないのだから、諦めても誰にも責められない。
だから、渉は諦めた。ひとたび諦めてしまえば、日々の生活のすべてはとるにたりないものとしか思えなくなった。なにをしても、無駄なのだ。
蛇神の前に、みずから招いた諦念に捉まっていた。
だからこそ彼は蛇神と望みを共有した。深く、想いを共にした。
——自由になりたかった。
彼は肯定した。蛇神の行為を、望むことのすべてを。自分自身を捧げてもいいと思った。
だが、その蛇神は彼のなかから出ていってしまった。
からっぽだ。
なにも、なくなってしまった。
幼い頃から諦め、受け入れてきたもののすべてが消えた。渉を包んだのは開放感などではなかった。
彼は、途方に暮れた。
捨ててしまったはずの人生が自分の手に戻ってきた。急に。今まで捨ててあったものを、不意にうまく扱えるだろうか。無理だ。
テレビで有珠山噴火のニュースを見ながら、漠然と蛇神を羨ましく思った。
被災者は大変だろうと思う。このことの責任の一端は、蛇神と、それを許容した自分にあると思う。だが同時に、どんな犠牲をも顧みないほどまっすぐに望めるものがあることに、痛いほどの羨望を覚えた。
涼子に電話で告げたように、六月になって地震を引き起こし、そして今噴火した三宅島の火山活動が、蛇神や言織比売と関係しているのかどうかは、渉にはわからない。
たぶん、無関係ではないだろうと思う。だが、それは無責任な憶測に過ぎない。
それでも、春先に覚えたのと同様の痛みが、渉を襲った。
羨ましかった。なにを措いてもかなえたい望みなど、渉にはない。
——もう、いないのか?
彼は自分の内側に向けて呼びかける。なんとも名状しがたいものが、自分自身の内にあるのに気がつく。うつろなもの。空白。空洞。どの言葉も正鵠を射ているとは言いがたい。
——ほんとうに、もう、いなくなったのか。
あのころ、渉の内を満たしていたおそろしいほどの力を思いだす。夜もろくに眠れないほどだった。つねに、アドレナリンが分泌されているようだった。熱があるときのように、神経過敏になっていた。額も熱かった。
それが嘘のように、今はなにもない。
彼はなにもしなかった。蛇神に身を任せていただけだった。唯一したことと言えば、蛇神を受け入れることだったかもしれない。倉のなか、一瞬、蛇神はいつものように女の巫を選びそうになった。それを押し止め、自分の方に注意を惹いた。
楽になりたかっただけだ、と渉は思う。
——涼子を助けようとしたわけじゃない。早く、楽になりたかったんだ。
いつ捉まるのかと恐れながら十数年、もう疲れ果てていた。どんなに諦めても、心のどこかに脅えはあった。それを、完全に手放すにはどうすればよいか。思いきって、捉まってしまうのが、いちばん楽だった。
「あー、やっぱり!」
不意打ちのように声が聞こえて、渉はたじろいだ。
聞き間違いではない。すぐそこに、涼子はいた。
「おまえ……なんでここにいるんだよ」
友人連中も連れているのかと思ったが、ひとりのようだ。よいしょ、とオバサンくさいかけ声をかけて、涼子は渉の隣に座った。ジーンズを穿いている。
「申しこみ、終わったから。あの子たち、まだ買い物とかしてくって言うから、別れてきた」
渉の視線で連れを探していることを察したのか、説明をはじめた涼子に、尋ねた。
「で、おまえはなにしてんの」
「兄さんも、相変わらずよねえ」
「……会話になってねぇよ。おれの声、聞こえてる?」
「昔っから、好きだったよね」
突拍子のないことを言いだすのも、涼子の専売特許だ。話題がとんでいるうえ、往々にして主語がない。へたをすると、目的語もない。そのうえ苦労して主旨を問い質してみれば、意味もなにもない発言だったりする。
渉は推測を放棄し、空を見上げた。かすんで見えるのは、スモッグのせいかもしれない。噴煙も関係しているのかもしれない。
それは自分の判断することではない。
「兄さん、屋根に登るの、好きだったもんね」
渉は眼を瞬いた。それから、涼子を見た。
「おまえだろ、それは」
「えー、なに言ってんの。最初に屋根に登ったのは、兄さんだったじゃない」
「……最初に登ったのがおれなら、それが好きなのもおれってことになるのか」
涼子は笑った。
「だってあたし、真似してただけだもん」
「真似って」
「だから、兄さんの真似。なんで屋根に登ってるのって訊いたら、飛行機を見てるんだって言ったじゃない。覚えてない?」
渉は記憶をひっくり返してみた。覚えがない。
「何歳のときだ、それ」
「小学校あがったばっかりかな。あ、違う。ほら、あのとき。足首を捻挫して、本家に泊まったじゃん。あのときよ」
象足のときかと渉が言うと、涼子はくちびるを尖らせた。それで肯定したつもりらしい。
「じゃ、おまえは屋根には登れなかっただろ」
なに当たり前のこと言ってんの、と涼子は頭をかかえた。
「もちろん登れなかったわよ。なのに、兄さんが見せつけたんじゃない。飛行機見てるって」
まったく記憶にない。そんなことがあっただろうか。
——いや。
ああ、と渉は低くつぶやいた。
「あったな。そんなこと」
守宮の家は、古い。どたどた走るとヤバいのだと何回注意しても、涼子は走りまわった。幼稚園児だからしかたないと後で大人たちは言ったが、渉は涼子のように考えなしに走った覚えはない。
だから、涼子が愚かなのだと思った。
その涼子の愚かさを咎める者は誰もいなかった。
沙久耶は一方的に渉を叱ったし、涼子の母である那河子叔母も、渉ちゃんのせいじゃないからと言いながら、涼子を責める口調に身が入らない。叱るより心配する方が忙しいらしかった。
「女の子の方がおとなしいっていうのは、嘘よね。この子なんて、勝手に本家に行ったきりで、ほんと、戻ってこないし」
「これくらいの年代だと、女の子の方がませてるって言うし。涼子ちゃん、しっかりしてるもの」
大人同士のやりとりを、渉は頭のなかで翻訳した。那河子叔母は、涼子が守宮に来たっぱなしになっているのを好かないらしい。沙久耶は涼子が来るのを好んでいるようだ。
なぜだろう、と渉は思う。なぜ、馬鹿で粗雑な涼子は大人たちに好かれるのだろう。
——女だから、かなあ。
その頃には、守宮が女系の一族だというのを漠然と理解しつつあったから、そんな風に思ったかもしれない。
自分も女に生まれればよかったと思ったことはなかったが、あのときは、涼子が羨ましかった。
痛いけど我慢するの、と言いながら足首に包帯を巻いてもらい、しばらくここん家にいてもいいよね、と尋ねた涼子。受け入れられることを疑いもしない眼差し。沙久耶はうなずき、那河子は渋った。
あのとき、渉は屋根に登ったのだ。たしか、廊下を直すので呼ばれた年取った大工が、ついでだからと家のあちこちを点検してくれたのに便乗したのだったと思う。
沙久耶は顔をしかめたが、それだけだった。
これが涼子なら、と渉は思った。
——もし今、屋根の上にいるのが涼子だったら。
もっと心配されたはずだ。きっと。
階下からは、涼子になにか食べたいものはないかと尋ねる母の声が聞こえる。そろそろ帰るけど、あとでまた電話するからね、と言い聞かせる叔母の声がする。
「坊ちゃん、まだ降りないかい」
渉は首を左右にふった。大工は、あとでまた見に来るから、と先に降りて行った。
ひとりだ、と思った。
誰も渉のことを気にしない。それなら、渉だって、もう誰のことも気にしない。
そのとき、倉のなかから呼び声が聞こえた。
それまでも、意識したことがなかったわけではない。頻繁に、彼は倉を怖いと感じていた。あそこにはなにかがいる、と。
はじめて、それにかたちができた。不定形ではあっても彼はそれを見た。明白に、それは渉を乞い求めていた。渉だけを、探していた。
漠然と感じていた恐れ、不安は消えなかったが、拒否しきることができなかった。
それは、渉を必要としていた。まぎれもなく彼自身を。狂おしいほどに探し求め、手に入れることを望んでいた。
そんなに欲しいならくれてやろう——いつでもいい。いや、今がいい。今すぐ自分を捉まえていい。
倉からあふれ出てきたなにかが渉にふれた。それは渉という存在を確認しているようだった。それと渉のあいだを隔てるものはなにもなかった。渉の目には、それは黒い靄のように見えた。一瞬にして彼の世界は暗くなり、それに覆い尽くされた。
——暗い。
なにも見えない。息が詰まる。それは渉のなかに入る手段を探しているようだった。
——まっ暗だ。
そのとき、一条の光が射した。
「にいさーん」
涼子の声が聞こえた。
気がつくと、渉は屋根の上にころがっていた。心臓が全力疾走した直後のように激しくうっている。全身が冷たい。手足の先端は痺れて感覚がなくなっている。
ふたたび、涼子が彼を呼んだ。
にいさーん、とその声は古い家のなかに響いた。
「どこにいるのー?」
答えるのも鬱陶しかったが、答えなければいつまでも呼びつづける。そういうところ、涼子は妙にしつこい。
大人がなんと言っても駄目なのだ。
「屋根だよ」
叫んだつもりだったが、それはつぶやきでしかなかった。
「兄さんってばー!」
渉は深呼吸をして、なんとか大声をだした。
「屋根だって!」
一瞬の間。
「なにしてるのー?」
答えようがない。息をついて、眼をひらいた。そうしてはじめて、今まで眼を閉じていたのだということに気がついた。
薄青い空を、飛行機が渡っていく。白くて、小さくて、玩具のようだ。
「飛行機。飛行機、見てるんだ」
「で、なんでここに来たわけ」
「兄さんがいるかと思ったから……じゃ、駄目?」
渉は鼻で笑った。
「おまえの行動の責任をとるのはおまえだし。動機の善し悪しなんておれが判断することじゃねぇだろ」
「だから、好きにしてるんじゃない。指図したがるのは兄さんの方でしょ。あたしはいつだって、自分のやりたいことを自分でやってるわよ。……まあ、推理が当たってるかどうか確かめたかったんだけど」
渉が不審げに見返すと、涼子は笑った。
「携帯の電波が入らない建物の奥に消えたまま、戻ってこない。ずっと玄関にいた証人の証言があるわけ。でも、電話したら通じるでしょ? じゃあ屋上かな、って来てみたわけ」
「……おまえにしては上出来だが、詰めが甘い」
不満げな顔をする涼子に、渉は肩をすくめて見せた。さっきの右側の子の真似だが、通じるだろうか。
「電話で言っただろう。信じるなって。電波、入るぜ。このビル」
「えっ……あ、なに? それってじゃあ、嘘? 兄さん、ちょっと、やめてよ。マジ?」
渉は笑い、涼子は渋面を作った。
「あたしの立場も考えてよね」
「知るか。おまえの立場はおまえが自分で守れ」
「そして兄さんは、孤高の人っていう自分の立場を自分で守ったわけね」
はいはい、と勝手にうなずく涼子に、渉は手をふった。
「推理が証明されたんだから、もう用は済んだろ。行けよ。だいたいおまえ、遅刻してきてどうすんだよ、この予備校にしようって誘ったの、どうせおまえなんだろ。自分の立場を守るんなら、そういうとこから詰めてけ」
またしても、涼子はうなずいた。今度は神妙な面持ちである。
「家に帰って着替えたら、思ったより時間かかっちゃって」
「めかしこむ柄か」
「誰がめかしてるのよ」
涼子のかっこうは、ジーンズに綿シャツ一枚。たしかに、めかしこんでる風ではない。うっかり電話に出たら、しつっこい勧誘で、切るのに時間かかっちゃったのよ、と涼子は説明した。
「家に帰らなきゃよかったなあ」
ああ、と渉は適当にうなずいた。
——気を遣いすぎなんだ。
予備校に高校の制服で来るなんて、誰でもやってることだ。でも、涼子はそれをするまいとした。変な勧誘電話もまともに相手をする。
だから、時間がかかる。
「ねえ、やっぱりアレ、うちの神様たちの責任なのかな」
「誰にも信仰されてない神が、人に責任を負うわけがない。逆に、神のやったことの責任を、おれたちが負うわけもない」
涼子がうなずいて、うん、と小さくつぶやくまでに、ずいぶん時間がかかった。
気を引き立てようとでも思ったのだろうか、顔を上げて空を見て、あ、と声をあげた。その横顔は、昔を思いださせた。
「ねえ、飛行機」
涼子は気がつかないうちに力を使う。だから、見張って、制御してやるのは渉の役目になった。
ほかに誰にも担えない責務だから、しかたがない。
成長するにつれ、涼子の力は薄れていくようで、それだけが救いだった——ただ、屋根に登るときだけは心配だった。はじめて涼子の力を意識したときのことを思いだして、どうしても不安になった。
紙飛行機をとばすくらいなら、なんの問題もない。かわいいものだ。
だが、意図せずなにか大変なことをしでかしてしまったら?
その日も涼子は屋根に登っていた。呼ばれたわけでもないのに、渉は後から上がっていった。たぶん、涼子がなにもしていないのをたしかめたかったのだ。
屋根に寝転んでいた涼子は上体を起こし、渉を認めて屈託のない笑顔を見せた。
「ねえ、覚えてる」
「なにを」
「とばしたよね、ここから。紙飛行機」
自分の考えを読まれたようで、渉はたじろいだ。だが、それを表に出さないことには自信がある。
「おまえがたわごとぬかしたときか。自分で操縦するとかなんとか」
「だって、できるような気がしたんだもん」
実際、できていたのだが、それを教えてやるつもりはなかった。
「ガキ」
「ほんとに子どもだったんだから、しかたないじゃない」
涼子はもう中学生だった。渉もだ。
夏が近かった。空は青く、日差しは強い。涼子はランニングの上からブラウスを羽織っていたが、熱いなあ、と言ってそれを脱いだ。
「今だって子どもだろ」
「何歳になったら大人なの」
すこし考えて、渉は笑った。
「なによ。なに考えたの」
「なんでもない」
「どうせ、いつまでたってもあたしは子どもだとか思ったんでしょ!」
「わかってるなら訊くなよ」
そのとき、涼子が腕をさしのべた。まっすぐに、ひとさし指が空の一点をさし示している。
「飛行機」
飛行機がどうした、と思った。だが涼子は真剣だった。
「こうやって指さしてると、なんだか飛行機を操縦してる気分にならない?」
どうしたどころの騒ぎではなくなった。渉は思わず涼子を見、そして飛行機を見上げた。
「おまえ、馬鹿なことするなよ」
「馬鹿なことってなに? 飛行機といっしょに空を飛んでるような気分になってるだけじゃない」
渉はほっと息をついた。
「飛行機と空を飛ぶってのと、操縦してる気分になるってのは、違うだろ。どっちも馬鹿なことには変わりないにしても」
「そう?」
似たようなものだと思うけどな、とつぶやいた涼子に視線を戻す。
涼子の眼差しははるかな空をみつめていた。
見上げる横顔、やわらかな頬の線を肩が遮って、のばした手、まっすぐに指し示した桜の花びらみたいな爪、その先端に宿る儚い光。
そのかなた、空を渡っていく白い飛行機。
「自由な気分に、なれるよね」
涼子は手をおろし、渉の方を見て笑った。
「だから兄さんも、飛行機見るの、好きだったんでしょ」
渉は絶句した。
彼はみつけられなかった——答えるべき適切な言葉を。なにか冷笑的な、いつもの彼がいかにも言いそうな返事を。
紙飛行機をとばしたこと、あったよね、と涼子は言った。あの、中学生のときと同じように。
「こうやって手を動かすと、紙飛行機が動くような気がしたんだ」
涼子は手をあげ、昔と同じようにまっすぐ指をのばした。
「どっちに飛んでいくかはわかるから、そっちへ指を動かしてたんだよね。今思えば、馬鹿みたいな話」
「かみひこうき、か」
紙ではなく神だったんだ、と渉は思った。素朴な呪術だ。「紙(カミ)」と「神(カミ)」。涼子の巫としての能力は、あたりに散っていたエネルギーを集め、即席の「神飛行機」を容易に作りだした。
まばゆい日差しのなか、カラフルな広告で折った紙飛行機の上から渉を見下ろした小さな神。ただ遠く、高く飛ぶことだけを望み、愉しむために生まれた儚い神——あの小さな神はどうなったのだろう。涼子の集中が途切れたとたん、また混沌のなかに戻って行ったのだろうか。
蛇神も、守宮の信仰から解き放たれたら、そうなるのか——いや、蛇神は言織比売とともにある。誰の信仰も必要としない独り神である言織比売の力があれば、蛇神が消えることはないだろう。
「おナガ様たち、どうしてるかなあ」
「幸せにしてるだろ」
——逃げ延びろよ。
渉をからっぽにして去ったのだ。秘められた神域も、倉の中の御飼甕も、すべて捨てて行ったのだ。
どこまでも逃げ延びて、自由になればいい。
「おナガ様ね、あたしたちのこと、思いだして寂しくならないかな」
渉は吹きだした。
「なんだそりゃ」
「だってほら、ずっと信仰してたんだからさ。ちょっとは寂しがってくれてもいいじゃない」
「信仰って、おまえ、おナガ様のこと本気で信じてた?」
あー、うー、と唸ってから涼子は頭をかき、たしかに昔は信じてなかったけどさあ、と認めた。
「でも、もう、知ってるもの。絶対に、忘れないもの」
兄さんもそうでしょ、と涼子はなんのてらいもなく言ってのけた。
中学生のときのように、渉は虚を衝かれた。そうか、と思った。
「……どうしたの?」
あのときより察しがよくなった涼子が渉の沈黙をいぶかしみ、彼の顔を覗きこんだ。
やりたいことをするのは、簡単だった。ほんの少しだけ、上体を前へ倒せばいい。無防備な涼子の首に手をかけ、くちびるをあわせた。
ほんの一瞬。
ものすごい勢いで涼子は跳ね起きた。ばね仕掛けの人形みたいだ。
「信じらんない! なにそれ!」
「……おまえって、ムードのかけらも理解しねぇのな」
中学生のときもそうだった。渉が涼子を意識して、なにか行動を起こす暇もなく、涼子はさっさと屋根を降りはじめたのだ。そして、滑るとか落ちるとか不吉なことがあると困るから、もう屋根に登るのはやめたと宣言してのけた。
あのときほど、涼子の無神経さに呆れたことはない。
それから今まで、四年も我慢したのだから、自分もかなりのものだと思うが、それ以上に涼子の鈍さに感心する。
む、と涼子はうなった。むむむむむむむ、とくり返してから咳き込み、真っ赤になって叫んだ。
「い、今っ、今のはナシだからねっ!」
渉は眉を上げ、仁王立ちになっている涼子を見上げた。
「それってなに。理想のファースト・キスのシチュエーションかなにか、あったわけ? それで、違うからって怒ってんの」
に、と涼子は言った。ににににに、とつづいた。
「兄さんの馬鹿っ!」
駆け去る足音を聞きながら、渉は屋上に寝転び、声をあげて笑った。
空の高みを、飛行機が渡っていた。
その背にはきっと、あの日、紙飛行機とともにかなたへ消えたのと同じような神が乗っているに違いなかった——見る者がいれば、今も神は笑ってふり返るはずだった。
——見よ、空はかくも広いぞ、人の子よ。
あとがき
この話は、著者の個人サイト『
うさぎ屋本舗』の三周年記念プレゼント企画「好きなキャラクター指定で短編を書きます」にご応募、ご当選なさった国岡じゅんさんのご依頼に応えて書かれたものです。
『
NAGA 蛇神の巫』の渉のその後ということですので、本編をご存じないかたにはわかりづらい話になっているかもしれませんが、ご容赦ください。
いつも応援してくださるみなさんに、感謝をこめて。お気に召すことを祈りつつ。
二〇〇一年三月 妹尾ゆふ子