ひどく消耗して、すぐには立ち上がることもできなかった。
あれだけの高さから落下したのだ。いくら彼が強靭でも、限界はある。非在のまま着地できればよかったが、ほんの一刹那でも長くあの状態をたもつことは、もとに戻れなくなることを意味していた。
誰に説明されたわけでもなく、理解していた。あらかじめ決められたことで、ごく当たり前の事実だと。
——なぜ、わかってしまうのかな。
非在の世界に割り込まねば、実体のないものは斬れない。
実体を失えば、とり戻すのは困難だ。
なにもかもが自明で、当然過ぎた。わかってしまうから、適切に判断し、行動した。
——疲れた。
葬祭場は小高い丘の上にあり、周囲をぐるりとめぐる道を霊柩車や親族を乗せたバスが登って来る。そして、降りて行く。
今は車通りが絶えていたが、さすがに唯一の外界との通路であるその坂道に、あまり長いあいだ横たわっているわけにもいかなかった。
適切に判断し、行動する。自分に求められていることのすべては、それだ。
彼は立ち上がり、石垣にとりついた。また石垣か、と思う。病院のまわりも石垣で囲まれていた。
そんなことをすべきだとは微塵も感じないまま、その石の縁に手をかけ、登りはじめる。誰かが見れば、おどろくだろう。奇異な行動だ、たぶん。
いっそ、見とがめられればいいのに、と彼は考えた。順調に体力が回復するのすら、今は腹立たしい。無様に道路に落ち、あらたな屍体を運んで来た霊柩車に轢かれるという考えに、暫し喜びを覚え、そしてまた腹を立てた。
自分がなにを怒っているのかわからないまま、石垣を登りきり、さらにその上に立つ緑色のフェンスをよじ登り、火葬場の裏手にある庭へと身を踊らせ——バランスを取りそこねて、よろめいた。
地面に手をつく。枯れた雑草をまとわりつかせた、黒っぽい土だ。耐えきれず、膝もついた。
——少し、休まなければ。
煙突の上の妙な気配は消えている。〈琴手〉が〈輝きの野〉の方で、大本を処理したのだろう。〈取り替え子〉は〈琴手〉が支配下に置いた者が見張っているはずだ。なにかあれば、騒ぎになる。生身の人間を盾にするのだ。
——今は、静かだ。
静かすぎるほど。
その静寂を、遠くで扉が開く音が破った。足音。枯れ草を踏んで近づいてくる。
立て、と彼は自分に命じた。立って、なんでもない風を装え。いや、すぐに歩み去れ。
しかし、立てないまま彼は待った。ためらいがちに近づいてきた足音は、かなりの距離を残して止まった。
かすかな声が、尋ねた。
「あの……どうしたの? 大丈夫?」
子どもだと思っているのだろう。宥めるような口調に苦笑した。彼女を笑うのではなく、自分を笑っていた。
そうだ。自分は幼い。どうしようもなく弱い。
あの罪もない魂を消し去ることしかできなかったと、自分を責めてしまうほど、弱い。逃げ出したいと思ってしまうほど……。
彼は立ち上がった。束の間、視線が合った。
〈取り替え子〉は、いぶかしげに彼を見て、それからさっと視線を逸らした。
彼はまだ生きている。生きて、ここにいる。そして〈取り替え子〉を守れるのは、彼だけだ。死者は生者になにもできない。斬り捨てようがどうしようが、同じことだ。
「怪我……してるの?」
ジーンズの膝が裂け、血が滲んでいるのに気づかれたらしい。そもそもジーンズで火葬場にいること自体がおかしいのだが、そこまでは考えていないようだ。
彼は黒いコートの前を合わせ、腰に吊るした剣呑な武器に気づかれないように歩きはじめた。娘とすれ違う一歩手前で立ち止まり、彼女を見上げた。
「母上は、立派な人だった」
直接、言葉をかわすつもりではなかった。気づかれずに警護するためには、接触が少ない方がいい。
今のはちょっとした気の迷いで、たぶん彼の弱さの発露なのだ。少しでも罪の意識を減らしたい、それだけだ。
「あの……母の、知り合いですか? クライアントの人?」
答えずに、彼は建物の角を曲がり、そして跳躍した。一瞬で、ベランダまで跳んだ。完調とは言えないまでも、この程度の動きなら問題ない。
高みから彼は〈取り替え子〉を見下ろした。喪服の裾がひらりと風に舞う。彼女はゆっくりと裏庭を横切った。フェンスまで来ると、そこで肩をふるわせはじめた。
あの弱々しい娘が、今の今まで涙をこらえていたらしいことに、彼はおどろいた。人前で泣けなかったのだろう。
自分が彼女の邪魔をしてしまったことに気づいて、彼はその皮肉に笑った。守るべき相手に気遣われて、どうする。思う存分泣かせてやるべき立場なのに。
——もっと、強くならなければ。
はじめて感じた。
彼女を、守らねば。自分にできる限り——いや、今以上に。
彼は眼を閉じ、はるかな〈輝きの野〉を想った。
ベルテインはまだ近くもないが、もはや遠いというほどでもない。次に〈輝きの野〉に戻ったら、またモルガヌのもとへ行こう。もっと強くなりたいのだと、今までにいちども口にしたことのない言葉を告げたら、そう、きっとモルガヌは喜ぶだろう。彼女は強い息子たちが好きだ。
ほとんど考えることなく背負っていた氏族の使命を、彼は今、ようやく自分自身の意志で担い直していた。
end of "WHITE" ©2004 Yufuko Senowo