2005.01.31−10:20 約束 ―真世の王・番外編― 1  浅い眠りから揺り起こされてみれば、部屋はまだ闇に沈んでいた。  硝子の火屋の中でたよりなく揺れる光が、彼の上に身をかがめた従卒の影を長く伸ばしている。部屋の向こう端の壁まで。 「太子がお呼びです」 「わかった」  理由は伝えられなかったが、察するのは容易だ。手早く身支度をととのえ、差し出された剣を腰に佩いた。黒鞘の剣を、いつもより重く感じる。  疲れているのだ、と思った。  自分もマントを羽織ろうとした従卒に、寝ていろ、と声をかける。自分がこれだけ疲れているのだ、小柄な体躯には疲労が堆積しているだろう。主人がいないあいだに休息をとらせた方がいい。 「じき、もっと忙しくなる。そのときに倒れられては困るからな」  困惑した様子に、クルヤーグはおかしみと、かすかな苛立ちを覚えた。自分の癖を呑みこんでいない相手と対すると、いつもこんな気分になる。 「ですが……」  口ごもった相手の名を呼んでやろうとして、口ごもる。前任の兵士が魔物に頭を吹き飛ばされてから、五日しか経っていない。  憶えても、すぐ忘れねばならぬ名なのかもしれなかった。  そう思うと問い返す気も失せる。よくないことだと考えながら、曖昧に手をふって議論を終わらせ、部屋を出た。  ――思ったより、早かった。  覚悟はしていたつもりだが、現実に突きつけられると、早い、とどうしても思ってしまう。心の準備がたりなかった証拠だ、とクルヤーグは苦い想いを噛み殺しながら身支度をととのえた。  来るべきものが来た。それだけだ。  領王の館は、思いのほか静かだった。衛兵はクルヤーグの顔を見て一礼したのみだ。誰何もしないのはいつものことだが、人数が少ないのが気になった。奥に詰めているのだろうが、無意味なことだ、とクルヤーグは思う。  従兄弟なら、無意味なことの多くは必要なことであるらしいからな、とでも言うだろう。それとも、今このときばかりは、彼も真面目な顔をしてクルヤーグを責めるだろうか。  ――馬鹿らしい。  あの従兄弟が考えることなど、予測がつくはずもない。  彼はひとり、暗い廊下を歩きはじめた。途中、家令とすれ違う。 「ご苦労だな」  声をかけると、家令は静かに頭を下げた。 「恐れ入ります」 「殿下は?」 「お部屋においでのはずです」 「ありがとう」 「お悔やみ申し上げます」  クルヤーグは無言でうなずき、足を速めた。  言われるまで忘れていた。彼も遺族なのだ。いかんな、とまた心の中で苦笑する。覚悟が聞いて呆れる。  親族だからこそ、深夜の来訪も不自然ではない。案内もなく歩きまわれるのも、幼い頃から勝手知ったる館の内だからだ。  目当ての扉の前に至ると、彼は声をかけた。 「わたしだ。入るぞ」  返事はない。かまわず扉を開け、室内に歩み入った。  中は暗い。クルヤーグは眉根を寄せた。自分を呼んだくらいだから、寝ているはずはない。声をはりあげ、名を名告った。 「殿下! クルヤーグです、殿下! ……ソグヤム?」 「ああ、従兄弟殿か。早かったな」  くぐもった声は、足下から聞こえてきた。クルヤーグはぎょっとして半歩下がり、急いで扉を閉めた。 「なにをやってるんだ」 「いや、なつかしくなってね、なんとなく」  ごとんと音がして、壁が動いた。扉からそう遠くない床近くの壁石がはずれ、黄色い光がさした。灯火を手にした青年が這い出してきたのは、それからだ。 「なんとなく」  復唱すると、クルヤーグは相手がさしだした燭台を受け取り、もう一方の手で青年の手をとり、引き起こした。 「いけないかね」  わずかに眉を上げて問い返したのが、そのへんの悪戯小僧であれば、無論なんの問題もない。 「東方月白領王の嫡子、ソグヤム太子がなされることとしては、少々難があるかと存じますな」  膝についた埃を払っていたソグヤムは、ゆっくり身を起こした。灯火の黄色っぽい光を受けて、いつもは明るい空色の瞳が、見慣れぬ色調に見える。 「ふむ。しかしだな、死者を悼むと、どうしても過去に想いを馳せることになる。それで、なつかしんでいたわけだよ」  隠し通路に潜りこんだことの説明にはなっていない。が、クルヤーグはいかにも納得したように、うなずいた。 「なるほど」 「予定では、従兄弟殿が来るより早く戻って来ているはずだったのだ」  思いのほか手間取った、と不満げにつぶやいて、ソグヤムは今度は肩のあたりを払った。見れば頭のてっぺんにも埃がついている。クルヤーグは顔をしかめて手をのばした。頭を払われても、ソグヤムは気にもとめない。 「ふむ。わたしはあまり縦も横も育ったつもりはなかったのだが、やはり子どものころのようにはいかないな」 「当たり前です」  この馬鹿が、と言いたいのを呑みこんだ。いちいち口にしていたら、一日中馬鹿馬鹿とくり返すことになる。 「当たり前か」  うなずきながら、しかし承服しがたいというように首をふり、ソグヤムはクルヤーグの手から燭台を取り戻すと、卓上に置かれたもっと大きな燭台に火を移した。 「こういうときだから、大した儀式はおこなわなくてかまわないだろう」 「こういうときだからこそ、領民をまとめ上げるため、という考えかたもあります」  起き上がったときに感じた、剣の重みを、クルヤーグは想起していた。疲労は雪のように降り積もり、静かに人々を押し潰す。  なにか、撥ね除けるための力が必要だ。 「ふむ。なかなか容赦がないな、従兄弟殿は」 「ありがとうございます」 「そうそう、褒めているんだ」  褒め言葉と貶し言葉の区別がつかない者が多くて困る、とうそぶくソグヤムは、べつに相槌を必要としているわけではないのだろう。視線も彼の方に向いてはいない。着衣の隠しに手を入れて、暗い窓の外を眺めている。  ――いつもより。 「ちょっと、饒舌かな」  心の内を読んだように、言われた。 「まだ口数が増える余地があるとは。不覚でした」 「それは嬉しいね。わたしは、つねに意表をつく存在でありたいと思っているのだ」 「これ以上は困ります」 「君を困らせるのはわりと楽しいよ。知っていると思うが」  布の襞のあいだから引き抜いた手に、古びた手紙の束が握られている。ひとめで、クルヤーグはその正体に気づき、従兄弟の目論見を察した。 「駄目です」 「いや、こんなものを残しておいてはまずい」 「いつ必要になるかわかりません」 「……だから、君が来る前に終わらせておこうと思ったんだが」  ソグヤムは紙束とクルヤーグの顔を見比べると、ため息をついてそれを机上に投げだした。 「保管場所を,ご存知だったのですか」 「無論だ。母上の考えそうな場所なら見当がつく」 「お父上は――」 「ご存知ないさ。あるいは……そうだな」  ソグヤムは、クルヤーグの眼を覗きこんだ。  なにかを確かめようとしているような、そんな表情をして。それから、ふとくちもとを歪め、笑みを浮かべた。 「知っていて、気づかぬふりをなさっていたかもしれん。だが、今となっては真実などわからぬよ」 「いつ」 「従兄弟殿を呼びにやる直前だ。ちょっと使いを出すのが早かったかな」 「駄目です」  また紙束を取り上げたソグヤムの手を、クルヤーグは素早く掴んだ。 「反応がよすぎるよ、従兄弟殿」 「わたしが預かりましょう」  ソグヤムは目をまるくした。 「それは駄目だ。それくらいなら、今すぐ隠し場所に戻してくる」  有無を言わさずもぎ取ろうとしたが、ソグヤムはそれを許さなかった。押さえられたままの手を燭台に近づけようとするので、クルヤーグはあわてて力をこめ直した。 「子どものようなことはおやめください。駄々をこねるのも、隠し通路を這い回るのも、終わりです。父上が亡くなられたのですよ。もう、あなたは太子ではない。おわかりか、領王陛下」  重々しく相手を呼ぶと、ソグヤムは見るからに意気消沈し、椅子を引き寄せて座りこんだ。しかし、手紙の束は握ったままだ。 「つねづね、おかしいと思っていたんだ」 「なにがです」 「位が高くなればなるほど、やりたいことができなくなる。おかしくはないか」 「責任とは、そういうものです」 「いらないのだが」 「ほしいからといって、手に入るものではありませんから」  だから、いらないといって抛てるものでもない。それくらい、ソグヤムも理解しているはずだ。 「これは燃やす」 「いけません」 「燃やす。中身は憶えてしまった。現物があってもなくても関係ない」 「それでは意味がありません」 「意味などあっては困る代物だ。だから燃やす」 「陛下」 「わたしに領王を名告らせたいか? なら、燃やせ」  ソグヤムは紙束を握った手の力を抜いた。彼の膝に、床に、古びた紙が次々と落ちて散らかった。  これでは領王どころではない。ただの駄々っ子だ。 「それとこれとは話が違う」 「違わんよ。これの中身が必要になると思うのかね? であれば、その場面を想到してみたまえ。わかるだろう、わたしが王位を要求するのでもなければ、そんなものは必要ない。そして領王位でなく、王都の玉座を欲するのなら、領王ではいられんよ」  簡単なことだろう、とソグヤムは言ってのけた。まだ返す言葉を思いつけないクルヤーグに、彼はさらに告げた。 「我が父とは血のつながりがなく、王都におわします王様の子であると証明する書状だ。これを保管してどうする。いらぬ災いの種を蒔くだけだ」 「しかし――」 「わたしが領王位を襲わぬとなれば、ここで陛下と呼ばれるのは君だということになるぞ?」  クルヤーグは憮然として答えた。 「誰が認めるか、そんなこと」 「では燃やせ。命令だ」  投げやりに言うとソグヤムは立ち上がり、窓辺に近寄った。外はまだ暗い。城壁から、たまに白い炎があがる。魔物が銀の護りにふれたのだろう。遠く地平線のあたりに眼をやれば、夜明けまでそう時間は残されていないことがわかる。  長い夜が明け、長い昼が始まるのだ。  ため息をついて、散らかった紙を拾い集めた。そう多くはない。しかし、貴重なものだった。 「いいのか」 「なにが。領王位を継ぐことなら、まったくよくないが、よいの悪いので選べる話でもあるまい」  そのかわり、面倒なことはすべて御免被る、やりたいことをやりたいようにやるぞ、とソグヤムは静かに宣言した。この男のことだから本気だろうが、ではなにを始める気かと考えても、そこまではわからない。  どうせ意表をついてくるに決まっている。それも、楽しそうに。  ソグヤムが、ふり返った。 「どうした。まだ燃やさないのか」 「ほんとうに、燃やすのか。これ以外、なにもないのだろう、その――」  実の父とのつながりを示すものは、と口にしかけたが、言葉にならなかった。 「くどい。燃やせ」  きつい口調で命じて、ソグヤムは眼を閉じた。頬の線が、少しするどくなったような気がする。  彼も、疲れているのだ。自分のように外に出て戦いはしなくとも。彼の戦場はここにあり、そして今、戦の局面は変わった。ソグヤムとて心の準備はしていただろうし、病に倒れた老父に代わり、実務のほとんどは既にこなしていたのだが、それでも。 「早くしろ」 「かしこまりました、陛下」  クルヤーグは暖炉に向かうと、その前に跪いた。紙束すべてが確実に燃えるよう、ゆっくりと火にくべる。一枚ずつ。  この一枚を手にするために命を賭ける者もいるだろうに、とクルヤーグは考えた。状況によっては、それだけの価値がある紙だ。貴人の筆跡が火に呑まれ、黒く炭化して砕ける。  ――そなたを遠ざけねばならなかったことを、許してくれ。  ――わかってくれとはたのまぬ。ただ許してくれ。  彼も昔、これを読んだ。  クルヤーグはソグヤムの従兄弟にあたる。先代の、いや今となっては先々代のと呼ぶべきか、領王には男子が生まれず、女子も短命に終わった。その短命だった娘が命と引き換えにこの世に生み出したのが、クルヤーグだ。  彼が領王の後継となるのが当然、と言われたこともあった。だが、それも今の領王が王都から来るまでの、ごく短いあいだだった。  あれはたしか、クルヤーグが十歳にならないころだったか、ソグヤムが父と呼ぶ人物が領王家の養子に来たのは。先代の王の息子、つまり王城に君臨する現王の弟である。身重の妻を連れていた。ほどなくしてソグヤムが生まれ、後継問題は完全に決着を見た。  というのは大人の事情で、クルヤーグは当時、それらの事情をよくわかってはいなかった。ただ、失われた家族の代わりに叔父と叔母、そして弟のような従兄弟が出現したのを嬉しく、こそばゆく思っただけだった。  ――遠くにあっても、我が心はつねにそなたのもとにある。  ――我が子をともない、王都へ来てほしい。  叔父は、もの静かな人だった。叔母は、いつも遠くを見ていた。今にして思えば、王都を懐かしんでいたのだろう。あるいは、王都にある人物を。  これらの手紙が届くのを、ひたすらに待っていたのかもしれない。  ――今は駄目だ。諸侯の監視が厳しい。会いに来てくれても、言葉をかわすこともできないだろう。  ――我が弟を置いて、そなたと我が子だけが王都へ来ることもかなうまい。不自然だ。  ソグヤムの父親が、養子に入った領王でも、中央の王でも、クルヤーグにとって違いはない。そもそも、従兄弟というのも名ばかりで、よほど丹念に辿らねば、血のつながりなどないに等しいのだから。  関係ないと思う自分が、これを保管しろと言ってしまう。まったく、地位と権力とやらの呪縛は大きいものだ、とクルヤーグは考えた。考えながらまた一枚、火にくべた。  ――ラグソルのことなど気にするな。あれを愛してなどいない。我が心は、つねにそなたとその子のもとにある。  ――疑うなら古い言葉で語ってもいい。物語師に伝言を持たせよう。我が弟とその家族の面前で語るようにと申し聞かせれば、疑う者もいるまい。  ――そなたの幸福を願い、平穏を祈る。なによりも。  ――王都に来てはいけない。そなたを護りきることができぬのだ、そなたに死なれるくらいなら、遠くで無事であってほしい。  ――そなたは生きよ。生き延びよ。我が子も生きて――。  燃え崩れ、落ちていく文字を追うほど、やるせなさが募る。位が高くなるほど不自由になるのであれば、この文字を綴った人物に、どれほどの自由があったというのだろう。 「ところで相談なのだが」  気配で、ソグヤムが背後に立ったことに気づいた。そら来た、とクルヤーグは思った。なにか、とんでもないことを言いだすに違いない。 「なんでしょう」 「鶏の姿を見たい」  クルヤーグは眼をみはった。ふり向いてソグヤムを見上げ、注意がそれたせいで指を火であぶってしまい、舌打ちしながら手を引いた。あらためて、手放した紙がすべて火に呑まれたのを確認すると、彼は立ち上がり、確認した。 「なんと、おっしゃいました」  怒っていいのか、呆れていいのか、嘆くべきなのか、それともいっそ笑いとばすべきなのか、見当もつかない。  ソグヤムの方は、至って快活だ。楽しそうだと言ってもいい。 「夜明け前がよかろうと思うのだが、今朝はもう間に合わない。明日でどうだろう? ある程度は警護の兵がいるだろうが、要は姿さえ見えればよいのでな。大々的に兵を出す必要はないと思うのだ。君の意見を聞きたい、何人くらい――」  夜明けを告げる狂った声が荒野に響き渡り、ソグヤムの声をかき消した。 2  自分はよくやった、とクルヤーグは思った。  少数の護衛だけ引き連れて行く気のソグヤムを説き伏せるのは、彼にしかできない仕事だった。  きちんと陣をととのえて押し出さねば、鶏はおろか手前に控える他の魔物どもに食い殺されるだけだと説明し、そもそも陣をととのえるために最低でもどれくらいの兵士が必要か、またそれだけの規模で出兵すればどれくらいの犠牲が見込まれるか、そこまでして実行する価値がある計画なのか、確認し、再考に再考をかさね、ようやく妥協点を見いだしたのだ。  あとはもう、なるようにしかならない。  夜明け前の暗さに包まれた領都の内壁に、門前に、広場に。ものものしく武装したち兵士たちが並んでいる。  靄が、銀粉をまぶした武具にしっとりと水気を与えていた。あまり濃くなると流れ落ちるな、と考えながら、クルヤーグは声をあげた。 「ラギン」  手綱を従卒に預け、壁際に寄る。少し向こうでは、彼が仕える領王がなにか喋っていた。兜をかぶりたくないと文句を言っているようだ。視界が遮られるとかいう馬鹿馬鹿しい理屈に、思いきり頭をはたいてやりたくなったが、それは後だ。 「お前にたのみたいことがある」 「なんなりと」  ラギンはまだ若く、剽悍な剣士だ。馬の扱いもたくみだし、親衛兵の全員がそうであるように、〈王の剣士〉だ。つまり、戦闘力が高い。 「あとふたり選んで、絶対に陛下のお側を離れないように」  領王が鶏の姿を見るための出陣であるということを知っているのは、ほんの数名である。領王が出陣するのも今までの戦で例のないことだったし、兵たちに余分な負担を与える必要もないだろう。  よりによって、敵陣深くに潜む正体不明の魔物の姿を見るために、領王が最前線に赴くなど。それが今後の戦の死活を握る鍵だなどとは、とても公表できない。  言葉の力を使うための下準備だということも。ほかに突破の方法がみつからないということも。領王にもしものことがあれば、打つ手がなくなることも。  どれも、兵たちに知らせるわけにはいかなかった。 「わかりました。しかし……隊長殿は?」 「おれは全体の指揮がある。領王陛下の御身は、お前にまかせた。お前と仲間は、陛下のご無事だけを考えろ。よいな」 「はい」  陣の進めかたは、前もってある程度は報せてある。しかし、ラギンにたのむのは、その先のことだ。 「夜明け前までに、ここに辿り着いてほしい」  クルヤーグは地図を広げ、ソグヤムがつけた印を示した。 「陣の先端よりまだ先ですね」 「そうだ。第二の陣形で押し出して圧力をかける。そこから先は、乱戦だ。第三で退路を作る。お前は陛下をお護りし、第二で飛び出してここを目指す。第三に移る合図は陛下がなされる。笛をお持ちだ」 「ひとつ、訊いてもいいでしょうか」  クルヤーグは地図から視線をはずし、ラギンの顔を見た。強いだけでなく、この若者は聡い。だから選んだのだ。 「そこには鶏がいる。だが、そいつは動かない」 「なるほど」 「ただ、陛下のお話では、周囲に強力な魔物が陣取っていてもおかしくないだろう、とのことだ」 「わかりました」  脅える様子はない。むしろ、戦場に出るのが楽しみな風だ。  ここ数日、押し寄せる魔物を城壁からはたき落とす程度の小競り合いしかなかったから、暴れ回りたいのだろう。  夜は忍び寄る魔物どもを追い払い、昼は毒霧から逃れるため屋内で休む。こんな生活をつづけていれば、誰でも疲弊する。ことに、魔物の囲みが次第に都を囲む壁に迫り、毒霧が濃さを増しているとあっては――せめて戦場で戦って死にたいと念ずるようでなければ、〈王の剣士〉とは言えなかった。  だからこそ、釘を刺しておかねばならなかった。 「敵を倒すより、陛下をお護りすることを優先しろ」 「はい」  呼び名は親衛兵でも、かれらは無力な主君を護って戦った経験がほとんどない。  先頃崩じられたばかりの前領王は、戦場に出ることはなかった。ソグヤムもそうだ。  王都でも、このんで訓練に参加する王太子ラグソルは、みずからが〈王の剣士〉の一員となっても不思議はないほどの剣腕の持ち主だ。あの突拍子のない主君のお守りが、かれらにつとまるだろうか――クルヤーグは、それを案じていた。 「あいつが馬鹿なことをしそうになったら、殴ってでも止めるんだぞ」  ラギンは笑って、わかりました、と答えた。冗談だと思ったらしい。 「出陣前に笑えるのは、ゆとりがあって結構なことだが、これは冗談などではない。本気で言っているのだぞ、おれは」 「はい。しかし、あんなに頭の良いかたが」 「頭が良いから始末におえんのだ。ああ駄目だ、やはり行かないと。よいか、とにかく、たのんだぞ。おれになったつもりで、あいつを叱り飛ばせ」 「無理ですよ、隊長殿」  クルヤーグは眼に力をこめた。 「やれ!」 「はっ。努力いたします!」  よし、と言い置いてクルヤーグは大股に歩を進めると、まだ文句をつけていたソグヤムの頭をはたいた。 「……なにをするんだ従兄弟殿」 「もったいなくも、領王陛下に『兜をかぶらないとどうなるか』の実演をさせていただきました」 「それはわかるが」  顔をしかめてつぶやきながら、ソグヤムはようやく兜を受け取り、恨みがましい目つきでクルヤーグを見た。 「わかれば結構」 「今、本気で殴っただろう」 「おれが本気で殴ったら、お前など首の骨が折れている」 「そこまで本気を出す必要はないのだ」 「そうだ、だから出していない。喜べ、まだ生きているぞ、ソグヤム」 「いや、なんだか妙に哀しくなってきた」  ちょっと持っていてくれ、とクルヤーグに兜を押し付けると、ソグヤムは黒い馬に跨がった。これも、クルヤーグが慎重に選んだ馬だ。  従兄弟は乗馬ができないわけではない。しかし、軍馬は気が荒い。ふだん乗りつけていないソグヤムに、戦場で制御できるとは思えない。といって、荷駄馬をあてがうわけにもいかない。足が遅いのは致命的だし、なにより戦を前にしてはすくんでしまうに決まっている。  悩んだ挙げ句、厩舎長とも相談の上、東涯郡の羊飼いたちから召し上げた馬を選んだ。東涯郡では、こんな風になる以前から、魔物が出没していたという。当然、羊飼いたちが乗る馬も、魔物に慣れている。その上、小柄な割に足は速い。  最良の選択をしたつもりだった。部隊の人数も、顔ぶれも、すべて考え尽くした。  ――勝つ必要はない。  クルヤーグは自分に言い聞かせた。負けなければいいだけだ。それだって、ずいぶん困難な仕事ではあるのだが。  乗馬した従兄弟に兜を押し付けると、相手は笑って受け取った。 「君もずいぶん欲がないな」 「なんのことだ」 「ずっと考えていたのだが、ふつうなら、わたしは恨まれる立場だろう。わたしがここに来なければ、君が領王位を継いでいたのだ。いい機会だから、わたしを亡き者にしようというくらいのことを、考えないのかね」  くだらん、とクルヤーグは一蹴した。 「そんなことを考えるとしたら、それはおれの偽物だな」 「まあ、たしかにそうだな」  従卒が、クルヤーグの馬を引いてきた。 「ありがとう――」  まだ名前が憶えられない。憶えたくないのかもしれない、と考えていると、横から声が聞こえた。 「マニン」  ソグヤムだった。きょとんとしている従卒を見下ろし、領王は笑った。 「いい名だな。我が従兄弟殿が面倒をかけてすまないが、よく世話をしてやってくれ」 「は……はい」  名を読んだのだ、とクルヤーグは気づいた。ソグヤムはたまに、こういう芸当を見せる。名告られもしないうちから、相手の名を言い当ててしまうのだ。ここらを跳梁跋扈している魔物どのも正式な名前も、ソグヤムはすべて知っているらしい。  しかし、慣れているクルヤーグはともかく、ふつうの者には気味が悪く思えるだろう。 「行け、マニン。ここはもういい。自分の支度をしろ」  クルヤーグが声をかけると、従卒は一礼して駆け去った。 「彼も出撃するのか」 「当然だ」 「まだ若いのにな」  ため息をついたソグヤムの手から兜をひったくると、クルヤーグは乱暴にそれをかぶらせた。 「痛いぞ、こら。さっき殴られたところが瘤になったようだ」 「我慢しろ。痛いのは生きている証拠だ」 「やれやれ……」 「では陛下、そろそろ刻限です。兵たちを出します」  兜を直していたソグヤムは、表情を変えずにうなずいた。 「わかった。戦のことは、君にまかせたよ」  手綱を引いて、クルヤーグは逸る馬を押さえた。戦だと、わかっているのだ。この獣は戦場に出るのを待ち望んでいる。  ――たぶん、おれもそうだ。  あれほど反対したのに、いざ出陣となると気分が高揚する。死に近い場所だと知っていても、戦場へ出たかった。城に閉じこもったまま緩慢な死を待つよりも、剣をふるって野に果てたい。  結局、彼も武勇を恃む〈王の剣士〉の一員なのだ。 「陛下」 「なんだね」 「かならず、ご無事で。あなたは必要なかたです」  クルヤーグ程度の将なら、いくらでもすげ替えが効く。しかし、人を見ただけで名前を言い当て、魔物の名を読み、未来を書き換えてしまおうなどと考えられる者は、ソグヤムを措いてほかにいない。  クルヤーグの目配せで、老将ダンナガンが騎馬隊を整列させはじめた。当然、歩兵隊の方へも指示が行っているだろう。  ソグヤムと話せるのは、今のうちだ。 「人を押しのけても生き延びるご覚悟で、門をくぐってください」  ソグヤムは苦笑した。ラギン同様、クルヤーグが冗談を言っているものととったらしい。 「それはまずいだろう、領王が領民を押しのけて助かっては」 「いいえ、よくお考えを。この策戦は、そもそも陛下があの魔物の姿を見るためのもの。首尾よく姿をご覧になられたとて、ご無事にお戻りあそばさねば意味はありません。それでは、犠牲が無駄になります。おわかりか」  なにか言いかけるように口を開き、そしてそのまま、大きなため息をついて。ソグヤムは、静かにうなずいた。 「そうだな。なんにせよ、わたしがあれをこの眼で見ないことには」 「そして、無事にお帰りにならないことには、この出兵は無意味になります。かならずお帰りになると、誰の命よりもご自分のお命を優先なさると、お誓いください」  くどいなぁ、とつぶやいて、ソグヤムは頭を掻こうとした。当然、兜に阻まれて失敗する。 「ああもう、邪魔だな。しかし、そんなに信用がないかね、わたしは」 「ありませんね」 「わかった、わかった。努力するよ」 「誓ってください」 「ほんとうに、くどいぞ。何に誓えば満足するんだね」  考えもせず、クルヤーグは口走った。 「亡き母上のご名誉に」  一瞬、ソグヤムは唖然とした。そして、破顔した。なにか、いいことを思いついたとでもいうように。 「……では、君はあれだ、奥方に送った首飾りに懸けて誓うんだぞ、かならず生きて戻ると」 「なぜおれが」 「わたしだけ誓わされるのは不公平だろう。君も誓え、そうしたらわたしも誓う」  一気に言ってから、ふとソグヤムの表情がやわらいだ。 「思いだすな、昔を……」 「誓いなら、あのとき済ませました」  膝を締め、クルヤーグは馬を抑えた。整列する部隊の先頭に立つ気でいる。わかった、と彼は足に力をこめた。わかったから、すぐに行かせてやるから。 「けっして裏切らない、とね」 「そうだったな。わたしも誓ったのだっけ?」 「お忘れですか、陛下」  いや、と否定しかけて、しかしソグヤムは途中で言葉を切った。昔を思い返すように眼差しが遠くなる。  その横顔は亡き領王妃に似ていた。明るい眼差しはしかし、領王妃のものではなかった。それは、王都を治める至高の人物と同じ色だった。  謁見の機会は何度もあった。  そのたび、王はクルヤーグをこういう風に見た。  当時は知らず、今ならわかる。王は彼にソグヤムの、あるいはその母親の存在を重ね、かなたに思いを馳せていたのだ。そういう視線だった。  ――くだらん。  感傷など、今は必要ない。クルヤーグはソグヤムのもの想いを断ち切るように動いた。 「陛下はともかく、こちらは今さら念を押されるまでもありません。ご命令いただければ、生きて戻ります」  ソグヤムはゆっくり、まばたいた。いちどだけ。  大きく息を吐くと、彼の貌にたゆたっていた曇りのようなものが、すっと消えた。 「そうだったな」  誓うから。  頭のなかで、まだずいぶんと若かった自分の声が言っていた。必死の口調だった。  手は、血のつながらない従兄弟の肩を掴んでいた。  ――誓うから。おれはお前を裏切らないと、約束するから。  あのときも、ソグヤムは俯いた。そして、なにかを吹っ切るように顔を上げ、クルヤーグを見たのだった。  ――聞こえてるよ、従兄弟殿。何度もくり返さなくてもいい。君を信じるよ、ことによると自分自身よりもね。  ほんとうにか、とクルヤーグは念を押した。若かったと思う。そしてソグヤムは、その彼よりもっと若かったのだ。ほんの少年だった。 「では命じておこうか。わたしより先に死んではならん」  ひょっとすると、今もあのときと同じ表情をしているのかもしれない。だからソグヤムは、ことさらに冗談めかして言うのだ。たぶん、彼は本気だろうに。 「ずいぶん期間が長そうですが、気のせいですか」 「一回の命令で手間が省けてよいではないか。わたしも誓っておこう、母上の名誉にかけて。君を長生きさせるためにも、せいぜい生き延びる努力はする、とね」 「そのへんで、手をうちましょう」  では、と一礼すると、クルヤーグはラギンに目配せをして、自分は騎馬隊の前へ出た。  出陣だ。  ダンナガンが望楼に合図を送ると、幟が上がった。門が、ゆっくりと開きはじめた。 3  クルヤーグが王都へ行ったのは、十六のときだった。  別段、王都へ行きたかったわけではない。自分は領都にいない方がよかろうと思っただけだ。  成人する日が近づくにつれ、領王位はやはり領王の御血筋にあたるクルヤーグ様が……と匂わせる輩が、足しげく彼のもとを訪れるようになった。  これはよくない、と彼は思った。  ソグヤムはまだほんの子どもだったし、譜代の家臣はクルヤーグに同情的な者が多かったから、その気になれば、容易に転覆できそうだった。容易だからこそ、あやうい、と感じた。  彼自身にその気がなくとも実現しそうなほどの、あやうさだ。  理屈ではなく、直感だった。ここにいては、まずい。  十六の誕生日、成人と同時に月白領を離れよう、と決めた。  しかし、領王の親戚ともなれば、住む場所を変えるのも容易ではない。領都を出るには理由が必要だ。〈王の剣士〉を目指すことにしたのは、それなら万人が納得するだろうと思ったからだ。  当時からクルヤーグは剣の稽古にうちこんでいて、筋もいいと褒められていた。若者なら〈王の剣士〉に憧れる時期がある。実際、クルヤーグの中にもそうした想いがないわけではなかった。  血のつながらない伯父である領王に希望を伝えると、かなり長い沈黙のあと、そうか、とだけ言われた。  領王は穏やかな性質の人物で、王都での政争を嫌ってここに養子に来たと噂されていた。あるいは追い落とされたか、なんにせよ権力から遠ざかるべくして遠ざかったのだと。  ご許可を、とクルヤーグが跪いて願うと、領王は戸惑ったように彼を見下ろし、それから進み出てクルヤーグの肩にふれ、立ち上がらせた。間近で並んでみると、背丈はクルヤーグの方がわずかに高かった。  ソグヤムに似ている、とそのときは思った。眼の色が同じだ、と。 「そなたは〈王の剣士〉になりたいのだな」 「はい」 「では、紹介状を書こう」  剣腕にはそれなりの自信があったが、〈王の剣士〉として通用すると勘違いするほど思い上がってもいなかった。だから、領王が言った紹介状とは、訓練をつけてくれる教師へのものかと思っていた。 「ありがとうございます」 「礼には及ばぬ。そなたのことは、ソグヤムの兄とも思っている。わたしにできるだけのことは、させてほしい」  領王妃が居合わせたかどうか、クルヤーグは憶えていない。ソグヤムはその場にいて、兄上、と彼を呼んだ。 「遠くに行ってしまうの?」  不安げに尋ねられ、しかしクルヤーグは安心させるための偽りを語りはしなかった。 「そうです」 「もう、戻ってこないの?」 「またお会いできますよ、殿下」 「ほんとうに」 「ほんとうです」  ソグヤムは両手をさしのべ、クルヤーグは幼い太子の前に跪いた。小さな手が彼の顔を挟み、額が額に押し当てられた。 「約束だよ」 「はい、かならず」  言い切ると、ソグヤムは微笑んだ。笑顔は領王妃に似て、陽射しに溶ける淡雪のように儚げだった。 「約束だよ」  領王が書いた紹介状は、兄である王に宛てたものだった。  王の威光をもってしても、クルヤーグが〈王の剣士〉にとりたてられるまでに、二年が必要だった。その間、領王が諸侯に根回しをしてくれたらしいと、あとで知った。運よく欠員が出たこともあり、十八でクルヤーグは〈王の剣士〉となった。  自身は訓練も怠りなくさらに腕を上げ、晴れて〈王の剣士〉となったときには、血筋のおかげだという陰口を無視できる程度に自信をつけていた。  ただ、ほんとうに強くなったとも思えなかった。なるほど、剣を揮っての立ち回りは、うまくできる。だが、御前試合など「ここ一番」での勝負運に欠けるところがあった。  仲間にも、お前は運がないな、とよく言われた。練習場では最強だ、と冗談めかして評されたこともある。  クルヤーグには、自分がなぜ勝てないのか、わからなかった。わからないなりに、今のままではこれ以上強くなれないだろう、とは感じる。だが、ではどうすればよいのかまでは、わからない。  ひたすら訓練をつづける以外、なにも思い浮かばなかった。  たまに、ソグヤムが手紙をくれた。父上が、なにか不足はないかと訊いておられます、というのがかならず結びのどこかにあった。  ほかは、他愛のない日常についての文章だ。家令がうるさくて息が詰まるとか、母上になにか差し上げたいのだけどなにがいいだろうとか、乗馬の訓練を始めたが馬にはどうして人間の言葉が通じないのだろうとか、〈物語師〉が来たけど去年の人物と違って下手だったとか、〈本〉が欲しいので送ってくださいとか。  市場で適当なものを見繕って、月白領へ帰る使者に持たせた。なにを買ったのか、よく覚えていない。適当に、手紙の文面に合わせたものを贈ったのだろう。領王妃にはマントの飾り止めを、ソグヤムには上質の紙を、家令にもなにか贈った気がするが、ほんとうに忘れた。  一回、剣士長に訊かれたことがある。 「お主はその従兄弟を恨んだことはないのか」 「ありません」  即答した。迷いなどなかった。 「奇特なことだ」 「そうでしょうか」 「そうだとも。こと権力が絡むと、どこもひどい有様だぞ。家族の絆など、意味をなさん」  苦い経験でもあるのか、剣士長は不愉快そうに顔をしかめて見せた。クルヤーグはふと違和感を覚え、つぶやいた。 「家族、と言うより――」 「ん? なんだ」 「いえ、つまらないことです」 「いいから言ってみろ。途中でやめるのはよくないぞ。おれが気になる。とても気になる。気になり過ぎて、お前を一対一の稽古で叩きのめしたくなる」 「稽古をつけていただけるのは嬉しいです」  無難に答えると、剣士長は鼻で笑った。 「では稽古をつけてやるからちゃんと話せ」  いきなり剣を抜いた剣士長に斬りかかられ、クルヤーグはすんでのところで体を躱した。 「真剣ですか!」 「決まっているだろう。ここは練習場か? 警備のお役目をつとめているときに、木剣だの刃を潰した剣だの持ち歩くわけにはいかんだろう。それに、この程度を躱せぬ者がおれの配下にいるはずがない。だから問題ない。さあ話せ」  剣士長は実に楽しそうに詰め寄った。  たしか、深夜勤のときだ。玉座の間の警護を受け持っていたような気がする。中には誰もいないし、外も無人だった。要は、おそろしく暇だったのだ。  しかたなく、クルヤーグは話した。 「わたしを動かすのは家族の絆ではない、と思ったのです」 「家族ではない? では、なんだ」 「たぶん、国を想う心ではないでしょうか」  東方月白領は、彼の故郷だ。住む所にも食べるものにも困らなかったとはいえ、親もなく、天涯孤独の身の上であるクルヤーグにとって、真に重みをもつ存在とは、故郷そのものだった。  たいせつに想うからこそ、国を出たのだ。自分が国を二分する争いを発生させかねないと、予見したからこそ。  領王一家は家族であって、家族ではなかった。むしろ家族であれば、もっと憎んだり恨んだりできそうな気がした。かれらは、あまりに遠かった――幼いソグヤムでさえ、遠く感じられた。 「それもまた、別の意味で難儀な話だな」 「そうでしょうか」 「お主が勝てぬのは、そのせいだ」 「はい」 「はい、ではなかろう、はい、では!」  苛立たしげに叫ぶとまた、するどく斬りつける。クルヤーグもまた避けた。次は剣を抜いて応戦すべきかと考えながら、とりあえず体さばきだけで躱した。  剣士長は柔軟だ、と彼は思った。一瞬で気配が変わる。世間話をしているときは、とことん暢気だ。殺気のかけらもない。なのに、瞬きひとつするあいだに斬撃をくり出してくる。  誰だったかが、剣士長の技量をして伸縮自在と評していたが、たしかにその表現がぴたりとくる。  クルヤーグの方は、とことん無骨でまっすぐだ。ひっかけがなさすぎて、却ってひっかかる、と練習相手にぼやかれたことがある。 「わかっていて答えたのではあるまい、どうだ」 「はい……」 「特別に教えてやるから、まあ聞いておけ。聞かせたからといって解決するものでもなかろうが、黙っているとおれの寝覚めが悪い。まずひとつ、お主はもっと強くなれる。ふたつ、お主が試合で負けるのは、自分が勝つことを正しいと信じきれていないからだ。そりゃ負ける。当たり前だ。みっつ、その理由はお主が自分自身を重んじていなことにある。すなわち、お主は誰のことも大事に思っていない」  一気に告げて、剣士長は剣尖をクルヤーグの鼻先に突きつけた。そして、わかったか、と問うた。 「いえ」 「よく考えてみるんだな。国などという漠然としたもののためには、人は戦えんのだ。人が戦うのは人のためだ。自分のためでもいいし、自分より大切な誰かのためでもいい。お主は未だ人でない。だから、十分に戦えんのだ」  クルヤーグは考えた。なんとなく、問題の核心を言い当てられたという気はした。  自分を大切に思ったことなど、ないのだ。 「しかし、では……では、わたしはどうすればよいのでしょう」 「難儀だと言っただろう。頭でわかったからといって、では今日から自分が大事です、とはなるまい」 「はい」  剣士長はにやりと笑った。そして、困った奴だな、と言った。 「おれはな、物事は、なるべくしてなるようになると思っている」 「はい」 「今日の明日のというわけにはいくまい。だがな、お主がつねにそれを心にかけ、自分自身を変えようと思い定めていれば、きっと、変われる」  とりあえず、そうだなぁ、と剣士長は剣を鞘に収めながら肩をすくめた。よし、こうしよう。 「なんでしょう」 「思い惑う部下を導くのは剣士長の務めだ。そうは思わんか」 「ありがとうございます」 「いいから同意しろ」 「はい」 「では、人生の楽しみかたを覚えに行こうか」  どうせ、こんなところを守っていても意味はない、といきなり持ち場を離れたのだから、クルヤーグはおどろいた。 「しかし、剣士長」 「やめろやめろ、これから遊びに行くというのに、そんな呼びかたはやめろ。名前で呼べ」 「しかし、剣……フィアラス殿」 「案ずるな。責任は、おれが取る」 「そういう問題では」 「そういう問題なのだ。いいか。人生は、楽しむべきものなのだ。ただし、自分自身で責任が負える範囲でな」  結局、逆らうこともできず城から連れ出され、酒屋で酔い潰された。フィアラスはべらぼうに酒が強く、最後まで酔った気配を見せなかった。  酔いにまぎれて、洗いざらい話すことになった。ただし、話せることはそう多くない。前領王の妹の子であるという話は剣士長もあらかじめ知っていたらしく、ただ、クルヤーグの母親が産褥で死んだことは初耳だったようだった。なるほどなぁ、と剣士長は眼を伏せた。  黙っていると、深遠な真理に想いを馳せる賢人のように見えた。 「お主は、女を作れ」  口を開けば、ご託宣はそんなものだった。 「嫌です」  子でもできれば、またきな臭い話になる。即座に断ると、次のお告げが降ってきた。 「では、まず約束でも守ってこい」 「約束ですか?」 「そうだ。約束したのだろう、その従兄弟と。ふたたび会えると」  そんなことまで、クルヤーグは話してしまっていたようだった。 「ですが――」 「無駄な陰謀を未然に防ぎたいなら、お主とその従兄弟のあいだに亀裂があってはいかん。それはわかるか」  言われてみれば、その通りだった。 「はい」 「次の月に、東方月白領の親衛兵の入れ替えがある。お主を推挙してやろう。ただし、短期間で戻らせるぞ。まだ鍛え終わったわけではないからな」  クルヤーグは茫然として答える言葉を持たなかった。親衛兵として、故郷に帰る。それは、思いつかなかった。 「その従兄弟と、仲良くやれそうなら仲良くなっておけ。おい、従兄弟は今、何歳だ」 「たぶん、九歳かと……」 「若いなぁ」 「はい」 「お主が言うな。若いのだから」 「九歳に比べれば年寄りです」 「そりゃそうだが。これからは定期的に里帰りをするのだな。従兄弟と仲良くなっておけ。少なくとも、領王陛下はそこのところを理解なさっておいでのはずだ。でなければ、幼い子どもに長い文を書かせまい」  それはどうだろう、とクルヤーグは思った。彼が領都を出たとき、既にクルヤーグは日常の文字を踏み越えて〈本〉に使われる文字の勉強を始めており、折にふれて寄越す手紙でも、クルヤーグなどより余程流麗な言い回しの文章を書いてきた。  もちろん、剣士長はそれを知る由もない。ふむ、とまた酒の入った瓶を掲げた。クルヤーグは盃の中身を開けるしかない。世界がゆらゆらと陽炎に包まれていくようだ。 「お主には、辛いこともあろうがな」 「……辛いこと、ですか?」 「だが、親衛兵として行くのが、手っ取り早いと思うぞ。お主が真実、そのなんだ、国の平穏無事を願っているのなら」 「嘘ではありません」 「では決まりだ」  あとで考えてみると、剣士長がまだ新任の剣士とふたりで警護を担当するのも変だし、とくに行事があるわけでもないのに玉座の間の前をというのも不自然だった。  当時は命じられるままに従っていただけだったが、あれは剣士長が彼の伸び悩みに気づき、相談に乗ってくれようと仕組んだ「おつとめ」だったのではないかと、今なら思える。  破格に強く、言動は奔放だったが、フィアラスは意外に面倒見のよい人物で、人の欠点を見抜く眼識があった。  彼の強さの一端は、そこに由来していたのかもしれない。 4  親衛兵として帰るべきだ、とフィアラスが手配してくれたことの意味を理解したのは、実際に月白領に戻ってからだった。  かつてここを旅立ったとき、クルヤーグは「大きい方の若様」だった。  だが戻ってきた今は、親衛兵だ。領王一家と彼のあいだには、明白な上下関係が生まれていた。  なるほど、と彼は納得した。これは効果的だ。  彼を立てようと画策していた者は、なんとおかわいそうに、と暗い顔で寄って来たが、〈王の剣士〉として領王様をお護りするのが自分の使命です、と平然と返してやった。  今の立場に満足していることを見せつけると、だいたいの者は期待がはずれたという顔で去って行った。  しつこかったのは、ソグヤムだ。  クルヤーグ兄様に王都のお話を聞くんだ、と暇さえあれば誘いに来る。暇といってもソグヤム自身の暇であって、クルヤーグの暇ではないのだから、迷惑きわまりない。  はじめは適当に断っていたが、せいぜい親しくしておけよという剣士長の忠告を思いだした。迷った末、非番のときに遠乗りに誘った。  ソグヤムが期待するような話を、クルヤーグはできなかった。ただ、馬に言葉が通じるようにさせる手伝いならば、できると思ったのだ。 〈王の剣士〉が随従するのだから心配ないと、供回りも連れずに領都を出た。あのころはまだ魔物の影などなく、いたって平和だった。  いざ時間を作って自由に喋れるようにしてやると、ソグヤムは静かだった。クルヤーグは無言の方が気楽だったので、とくに話をふったりしない。ただ、たしかに乗馬は得意ではなさそうだな、と小馬に跨がった弟を見て考えていただけだ。  自分がこれくらいの年頃というと、ちょうどソグヤムが生まれたころだろうか? もっと自在に乗りこなしていた記憶がある。 「兄上は、お優しいかたですね」  不意に沈黙を破って、ソグヤムはさらりと口にしたものだ。少なからず面食らわされ、反応が遅れた。 「……おれが?」 「ほかに兄がいたらおどろきます。それとも、お心当たりでも?」  当時から、ソグヤムは突拍子もないことを口にした。幼いとはいえソグヤムなのだから当たり前、とはそのころは思いもよらない。ただ、子どもとはそういうものだと考えていただけだ。 「いや、そんなものはない」 「それでは、わたしが兄上とお呼びするのは、あなただけでしょう」  理屈っぽいくせに無茶苦茶なことを言うのも、昔からだった。  ぽくぽくと馬を進ませるソグヤムを見下ろして、ちゃんと話しておこうかとクルヤーグは考えた。  自分を兄などと呼んで立ててはいけない。親戚扱いはよくない。これからは主従のけじめをつけねばならぬのだ、と。 「ソグヤム様」 「様はやめてください」 「おれは〈王の剣士〉で、領王陛下の親衛兵ですよ」 「ではわたしの命令に従ってくださるのですね?」  得たりや応と返されれば用心する程度には、クルヤーグはソグヤムを知っていた。 「ええ、ことによっては」 「つまり、ことによっては従えぬ、と。たとえば、王様とわたしの父上とが争ったら、兄上は王様にお味方なさる。こういうことですよね」  クルヤーグはぎょっとした。そんな事態になる可能性など、考えてみたこともなかったからだ。 「両陛下はご兄弟同士であられます」 「血を分けた兄弟でも、争うときは争います。歴史を学べば、血のつながりなど憎しみを深めるだけだと知れます」  賢しげに断じて、ソグヤムは顔をひねった。まっすぐに、クルヤーグを見上げて告げた。 「兄上とわたしは血のつながりがありません。そして、兄上は前領王陛下の血を引いておいでです。ですから、わたしが領王位を継いだら、それを兄上にお返ししようと思っています」  自分の口が開いていると気づくまでに、暫くかかった。  ソグヤムは視線を前に戻した。馬にまかせておけない程度の信頼関係しか築いていないからだ、とクルヤーグは考え、今はそんなことを考えている場合ではないぞと自分を叱った。 「お断りします」 「なぜです」  心底おどろいた、というようにソグヤムがふり向いた。 「なぜもなにも、そんな無茶なお申し出は、聞き入れるわけに参りません」 「無茶ではない!」  ソグヤムは顔を赤くして叫んだ。真剣だ。聡いようでも子どもだな、と思いながら、クルヤーグは淡々と返した。 「無茶です」 「では、あなたは王に従ってこの月白領を攻めることもできるのか。〈王の剣士〉になるとは、そういうことだ。あなたの先祖が代々治め、護り、導いてきた土地をだ。それこそ無茶だ」 「任務とあらば」  答えてしかし、クルヤーグはそのことについて想像してみた。  王が、月白領に兵を向ける。そんな事態があり得るのだろうか。絶対にないとは言えないだろう。  彼は双方の兵の質を知っている。王の軍は数は多い。そして、精鋭はたしかに強い。が、下層はとんでもない弱さであり、忠誠心もほとんどない。崩れるとなれば、早いだろう。  領王の軍は逆に、大した数ではない。が、平均的な戦闘力は高く、忠誠心は篤いだろう。領土の辺縁部、王都からは遠い方の住民は剽悍で、馬の扱いにも長けているし、ふだんから魔物を相手に戦っている。つまり、潜在的な戦闘力は、それなりの質と量になるはずだった。  とはいえ、王の軍は他領の兵も加えることになるだろうし――。 「そんなのは、間違っている!」  ソグヤムの叫びが、クルヤーグの想念の内で整列していた軍旅を乱れさせた。 「間違い、と申されましても」 「戦いながら、兄上の心は血を流す。領民を傷つけながら、自分自身をも苛んで、知らぬ間に魂が死んでしまう」 「そんな」  笑いとばそうとして、果たせない。ソグヤムは、冗談めかして受け流すことを許さなかった。 「争わずに済ませるためには、兄上が領王位を継がれるのがいちばんいいんだ。領民の多くが、そう思っている。親衛兵として服従する兄上など、誰も見たくないんだ」  ああ、とそのときクルヤーグは気がついた。  左手を手綱からはなし、ソグヤムの頭を掴むと、髪の毛をかき回してやった。 「それはつまり、お前のことだな」  眼をしばたたいているソグヤムに、クルヤーグは微笑んだ。 「お前が、見たくないのだろう。おれが父上にお仕えする姿を」 「それは違う、いや、……正直に言って、たぶんそれもあります。だけど、でも、わたしが感じるだけじゃないんです、兄上。領民たちも、感じてるはずなんだ。こんなの、おかしいって」 「ソグヤム、まあ聞け」  クルヤーグは敬語をやめた。その方が、ソグヤムが素直に聞いてくれそうな気がしたからだ。  自分がこの子と同じ歳だったとき、ここまで考えられただろうか、と疑う。たぶん無理だ。だが、ソグヤムと対峙しているのは今の自分で、ちょうど倍ほども年長だ。 「いいか、お前の案には難がある。たしかにおれは前の領王の血胤だ。だがな、今の領王は誰の血胤だ?」 「……王の」 「そうだ、わかったな。当然、お前自身も同じく王の身内ということになる。それを追い落としておれが領王位に就いてみろ。王城のやつらが黙ってはいない」  それこそ、国をふたつに割る戦になるぞ、と静かに告げた。  国を出たのも、〈王の剣士〉になったのも、ただそれを避けるためだ。たしかに、ソグヤムが言うような事態までは想定していなかったが、そうなったらそのときだ、とクルヤーグは考える。  彼が慎ましく仕えることで、まわりの認識を変えていかねばならない。すぐには無理でも、つづけていけば、誰もクルヤーグを「もうひとりの若様」扱いはしなくなるはずだ。  ソグヤムはくちびるを噛んだ。うまく反論できないか、考えているのだろう。  しかし、考える暇を与えるつもりはなかった。 「だからソグヤム、これからは、おれを兄上と呼ぶな。不自然に避ける必要はないが、おれを立ててはいけない。お前の方が位が上なのだと、見る者に納得させねばならない。何年もかけて、それで当然なのだと思わせねばならないんだ。……わかるな」  ソグヤムはそれからずっと黙ったままだった。反論したいのにできなくて、くやしいのかもしれない。  適当なところで馬首を返して戻ろうとしたとき、ソグヤムがなんの脈絡もなくつぶやいた。 「従兄弟殿」  なんのことか、わからなかった。ソグヤムはあの空色の眼でクルヤーグを見ると、さっきまで不機嫌に押し黙っていたのが嘘のように、笑った。 「変な顔して。あなたのことだよ。兄上が駄目なら、これは認めてほしい。よく考えた。たしかに、あなたは正しい。言われた通りにする。わたしは君主の息子で、兄……いや、従兄弟殿はそれに仕える兵士に過ぎない」  几帳面に言い直して、ソグヤムは肩をすくめた。 「ご理解いただけて、なによりです」 「だからせめて、従兄弟殿と呼ばせてほしい」 「……は?」 「兄上と呼んではならぬと言うのだから、従兄弟殿とお呼びする。それでいいだろう!」  文句があるか、と言いたげな目つきだった。クルヤーグは笑いをかみ殺し、せいぜい真面目に答えた。 「はい、たしかに」 「そして、わたしが従兄弟殿と呼ぶときは、兄上と呼んでいるのだと考えよ。これは――」  すう、と息を吸って、それからソグヤムはにこりと笑った。屈託のない笑みは、昔、王都へ向けて旅立つときに見たよりも生命力に満ちて、力強かった。 「――命令だ」  声もまた、よく響いた。子どもの声らしい甲高さで耳に響くという意味ではなく、人を打つ口調を、ソグヤムは既に身につけていた。 「かしこまりました、殿下」  クルヤーグは一礼し、ふたりは顔を見合わせた。  たぶんあのとき、かれらはわかりあったのだと思う。ともに、領国の安寧を想っていると知って、心を許せるようになったのだと。  以来、人前では完全に主従の関係を保つようにした。といって、よそよそしいと感じさせることもないようにした。ソグヤムは威張ったが、同時にクルヤーグになついて見せた。クルヤーグも堅苦しく応えながら、しかしソグヤムをかわいがって見せた。  あのふたりは仲が良いと周囲に納得させるのに、そう時間はかからなかった。 5  一度だけ、ソグヤムは王都に来たことがあった。領王妃の両親があいついで死去したため、葬儀には間に合わなくともせめて墓前に花を捧げたいと願い出て、かなえられたのだ。  領王は来なかった。領王となった者は、滅多なことでは自領を離れないのが通例だから、当たり前のことだ。  クルヤーグは事前に領王みずからの手になる信書を届けられた。王城の中ではくれぐれも妃と太子をたのむと、流れるような筆跡で記した領王の心中を、当時は推し量ることもできず、ただ額面通りに受け取った。  暗殺の警戒を示唆する文章もあったが、クルヤーグには実感が湧かなかった。王城ほど安全な場所はないのだ。武器を持ちこめるのは〈王の剣士〉だけなのだから。  しかし、そこでふと、フィアラスの言葉を思いだした。  血がつながっていればこそ、争いは醜くなる。王と領王は兄弟同士。なにか深い恨みでもあれば、王にとってはまたとない好機だ――自分の弟の子を殺すための。  いつかソグヤムが口にして、破天荒な話だと即座に退けた仮定が、ようやく身に迫って感じられた。  ――たとえば、王様とわたしの父上とが争ったら、兄上は王様にお味方なさる。こういうことですよね。  領王が暗に告げているのは、それなのだと……愚かにも、クルヤーグはそう考えた。  ことがことだけに誰にも相談できず、かなり悩んだのを覚えている。そういう目で見てみると、周囲の仲間は――〈王の剣士〉は皆、敵でしかなかった。  そしてかれらを敵と思う以上、クルヤーグはやはり〈王の剣士〉である以前に、月白領の人間なのだった。 「ずいぶん痩せたね、従兄弟殿」  ソグヤムの第一声がこれだったのは、今でも忘れようがない。領王妃がたしなめるように手をふったが、ソグヤムは見ていない。当時、たしかソグヤムは十二歳、クルヤーグはもう二十一歳で、立派な〈王の剣士〉の一員となっていた。 「誰かにいじめられているの?」  無邪気に尋ねているようで、実は本気なのがソグヤムだ。クルヤーグもそのへんは心得ていたから、適当に受け流した。 「今まさに、殿下にいじめられています」 「わたしが? それは勘違いだろう、従兄弟殿」 「一介の〈王の剣士〉風情にまずお顔をお見せくださるのはありがたいのですが、まずは妃殿下のご実家へ伺うのが礼儀かと」 「違うだろう。王城で王様にお会いしないと」  それがいじめだ、とクルヤーグは思った。が、口にするわけにはいかない。助けを求めて領王妃の方を見たが、にっこりと、晴れやかな笑顔を向けられただけだった。  ソグヤムはと言えば、すっかり調子づいて舌もいつも以上によくまわる。 「王城への案内をたのみに来たんですよ。せっかく従兄弟殿が〈王の剣士〉という栄誉ある地位にあるんだしね。身内の者に案内してもらいたいと思っても、おかしくはない。だよね?」  まず実家に連れて行って保護する、という案はこの時点で諦めるしかなかった。せいぜい王城内にいるあいだは、このふたりから、とくにソグヤムから眼を離さないようにするのが自分のつとめと心得ていればよかろう。  剣士長に、かれらが滞在するあいだは通常の任をといてほしいとたのんで、以後、クルヤーグはソグヤムの護衛役として動いた。  王が領王妃とソグヤムに対面したときも、だからクルヤーグは背後に控えていたが、慎ましく面を下げていたので、王の表情は見ていない。  ただし、かわされる挨拶を聞いて、おや、と思ったことは覚えている。まず、領王妃の声がふるえていた。 「お久しゅうございます」  王がうなずいた気配を感じた。次いで、王の問い。 「そちらが太子のソグヤムか」  やけに性急だとクルヤーグは思った。王都で思い知ったのは、偉い人ほどまわりくどい、ということだ。王などはその頂点にいるのだから、直截にものを言うことは非常に稀だ。  だが、そのときの王は、気が急いているようだった。 「はい、陛下」  答えたのはソグヤムで、これはいつもの通りだ。とくに緊張している風もなく、大した心臓だとクルヤーグは感心した。 「大きくなったな……そなたらのこと、ひとときたりとて忘れはしなかった」  ラグソル、と王太子を呼ぶ声がした。  クルヤーグは既にこの王太子を見知っていた。成人を迎えたばかりの王太子は、好んで〈王の剣士〉の訓練場にあらわれ、みずからも剣士を目指すとばかりに修練を積んでいたからだ。  だが、ラグソルはクルヤーグを稽古の相手に選ばなかった。比較的歳が近い上に、かたちの上では親戚と言えなくもないのだが、ことさらにクルヤーグを無視する風があった。  今ならその理由がわかる。  年上の剣士になら、ラグソルは負けることができた。恥と思わずに済んだ。そう変わらない年齢の、しかも領王家の血を引いた遠戚の青年には、彼は負けるわけにはいかなかったのだ。  だが当時はわからないまま、ただ嫌われているという感触だけを得ていた。聡明な若君だと噂されているのは聞いていたが、どこか率直さに欠ける人物だと思っていた。 「ラグソル、あそこにいるソグヤムは、そなたの伯父の子だ。そなたらは、従兄弟同士ということになる」  仲良くせよ、と王は命じた。 「御意」  ラグソルの声はやわらかだったが、剣呑さを含んでいるように、クルヤーグには感じられた。今にはじまったことではない、と自分に言い聞かせながら、しかし、敵とみなすべきは王ではなく、この王太子なのではないかと直感していた。  ひょっとすると、王太子は既に知っていたか、あるいは疑っていたのかもしれなかった――従兄弟だと紹介された少年が、実は自分の異母弟であることを。  そのとき、クルヤーグはまだそれを知らず、ソグヤムも自分の父親は領王だと信じていた。 「ラグソル殿は、わたしの二番めの従兄弟ですね」  ごく機嫌良くソグヤムは言ってのけた。 「二番めとな? はて、そなたに従兄弟がいるという話は聞いておらぬが」 「そこに控えているクルヤーグが、わたしの一番めの従兄弟です」  そら見ろ、とクルヤーグは思った。やはり、いじめではないか。 「しかし……」 「陛下、ソグヤムは、領王がクルヤーグの亡き祖父の養子となったことを申しておりますのよ」  領王妃が助けてくれなければ、従兄弟とはどういう意味だ、と説明を求められていたに違いない。クルヤーグはほっとして、感謝の念をこめて領王妃の華奢な背をみつめた。  そして、気がついた。 「領王は、クルヤーグの亡き母の義弟ということになりますの。ですから、ふたりは従兄弟同士なのですわ」  いつになく饒舌な、領王妃。斜め後ろから見る頬の線は、笑みをあらわすように持ち上がっている。かすかに上気して、春を告げる花のような色合いを帯びていた。  こんな領王妃を、彼は見たことがなかった。 「そうです、クルヤーグはわたしの従兄弟です」  そうだよね、とふり返ったソグヤムと視線を合わせるまでに、少し時間がかかったのは、そのことを考えていたからだ。  目が合うと、ソグヤムはいかにも罪のない子どもの顔をして、にこりと笑った。 「そうだよね、従兄弟殿」 「畏れ多いことです」  口のなかでつぶやいて、クルヤーグは頭を下げた。  ラグソルが鼻で笑ったことを、今でもよく覚えている。自分への反感から、ソグヤムまで嫌われることになったかもしれない、と考えた。  王太子は当時、たしか十七、八歳といったところだったはずだ。体格はもうすっかり大人だった。歳の割には小柄なソグヤムと比べると、いかにも成熟して見えた。  端麗な容貌の持ち主で、望めばいくらでも浮き名を流すことができただろうが、あまりそういう話は聞かなかった。 「では、そちらの剣士とわたしも従兄弟同士ということになろうか」 「血のつながりはないですけどね」  ソグヤムがさらりと言ってのけたのは、知らないからこそだ。領王妃は笑顔をおさめて俯き、王はもっともらしくうなずいた。 「血のつながりだけが人のつながりではない。さて、大人同士が話しているあいだ、従兄弟同士で城の見物でもしてくるといい」  王に勧められれば遠慮もできない。絶望的な気分で部屋を出たクルヤーグは、ラグソルとソグヤムを見比べた。この場の主導権は、王太子のラグソルが握っている。 「クルヤーグ……と言ったかな」  ラグソルは冷たい眼をクルヤーグに向けた。とても従兄弟同士という雰囲気ではない。 「はい、殿下」 「わたしは剣の稽古があるので訓練場へ行く。お前はその太子に城内を案内してやれ」 「はい、殿下」 「では従兄弟殿、機会があったら、また」  優雅に一礼して、ラグソルはその場を立ち去った。隙のない後ろ姿を見送って、クルヤーグはほっと息をついた。ようやく緊張をとくことができた。  やれやれ、というつぶやきをなんとか呑みこんで、どこへ行きたいですか、とクルヤーグは尋ねた。しかし、ソグヤムの返事は回答になっていなかった。 「大変そうだなぁ」 「なにが」  思わず気楽に訊き返したが、ソグヤムはにこりともしない。 「王城の暮らし。従兄弟殿も大変そうだけど、あっちの従兄弟殿も大変そうだ」  意外に思って、クルヤーグは尋ねた。 「ラグソル殿下が、大変そう?」 「すごく自分を歪めてる。名前を聞くまで、欠片も読めなかった」  当時はなんのことかわからなかった。が、あまり深くは悩まず、またソグヤムがわけのわからないことをつぶやいている、と思ったものだ。 「どこか見てみたい場所でも?」 「どこもかしこも」  要は適当に歩き回ればいいんだと強引に解釈して廊下を歩いていると、ソグヤムの口調が不意に変化した。 「ところで従兄弟殿、ようやく母上がいないところで話せるようになったから、訊いておきたいんだ」 「なにをだ」 「女の人と、つきあってるよね」  いきなり断言された。 「……待て。なぜわかる」 「当たった!」 「いや、だから……」 「母上にって送って来るものが、前ほどとぼけた品じゃなくなったからね。これは、女性の意見を聞いてるんだな、と。すぐわかるよ、従兄弟殿が親しくもない女性に品物を選んでもらうわけはないし」  クルヤーグはよろめいて、思わず柱に手をついた。ソグヤムはそんな従兄弟の風情は無視して、あるいはより楽しんで、さらに言葉をかさねる。 「王都にいるあいだに、会わせてほしいな。従兄弟殿のことだから、結婚も考えてるよね。あんまり家柄のいい相手だと遠慮するだろうけど、予測がはずれていなければ、有力な家門の姫君じゃないはずだ。たぶん、こまやかな心遣いのできる人で、従兄弟殿にはお似合いだろうな。ああ、早く会いた……いたたっ!」  なにをするんだ、と手をふりまわすソグヤムの頬を、クルヤーグは力いっぱいつねり上げた。 「この口か、そういう生意気なことを言うのは」 「だって、当たってるよね?」  まるごと当たっているから実力行使に及んでいるのだが、そこがわかっていないのがソグヤムらしい。 「まだ喋るか」 「いたたた、痛い、痛い!」 「お前、それをまさか妃殿下には……」 「言ってないから、母上がいない今、話を持ち出したんじゃないか! わかってないな、従兄弟殿は……って痛いったら!」 「会わせてやらなくもないが、条件がある」 「なんだろう」  ようやく手を離したクルヤーグを見上げるソグヤムの眼は、期待に満ちている。やめればよかったか、と躊躇しながらも、こうなっては適当にごまかすこともできない。咳払いをして、クルヤーグはぼそぼそと話しはじめた。 「おれの選んだものを『とぼけた』と評するからには、だ。お前はその、とぼけていないものを見分けられるのだろう?」 「ああ! いいよ、じゃあ市場へ行こう」 「……まだなにも言っていないぞ」  呆れる彼に、ソグヤムは笑いかけた。 「いい女性を選んだね、従兄弟殿」 「だから。会わせてもいないだろう」 「従兄弟殿を見ればわかるよ。とても、澄んでいる」  クルヤーグには、さっぱりわからなかった。 6  槍より剣の方が性に合うのだが、そう贅沢も言っていられない。最初の突撃の威力は、やはり槍が剣に優る。  鏃のようにするどく尖った陣形の先頭に、クルヤーグはいた。ソグヤムは斜め後方にいるはずだ。いちいちふり向いて確認するゆとりはない。  軍馬の蹄鉄が、逃げ遅れた兎を踏み砕く。向かってきた猿の額を、槍先が貫いた。青黒い体液が飛び散るのを盾で受け、槍を回す。横から飛びかかろうとしていた猿を、柄でいなした。敵が飛び退いたぶん、馬が進む。 「陣形、緩んでいるぞ! 左翼、引き締めろ!」  ダンナガンが叫び、角笛が鳴り響く。  魔物の層が厚くなり、思うように進めなくなった時点で、クルヤーグは号令をかけた。 「射て!」  陣の中程に守られた射手が、空へ向けて次々と矢を射ていた。騎馬の射手は二十名。退却時の援護を考えて、長弓の得意な者は城壁に残してある。ここにいるのは短弓の上手で、矢が尽きれば剣に持ち替えて戦える者ばかりだ。  身動きがとれなくなったのを狙って、空からの攻撃があるだろう、とはソグヤムの予測だった。矢はそこまで温存しよう、とクルヤーグが言うと、領王はうなずいて告げた。そこで、使い切っていい。  銀光が暗い空を切り裂き、不吉な羽音を響かせる魔物を射落としていく。小気味がよいほど当たるのは、それだけ敵の数が多いからだ、とクルヤーグは考えた。空を埋めるほど、いるのだ。  しかし、空の魔物はじきに引く。鶏が鳴く前に退却するはずだ、とソグヤムは断言していた。 「矢を打ち尽くす気で使え!」  落ちて来た魔物を打ち払い、クルヤーグは馬を進めた。棘のある胸当てをつけて、クルヤーグを乗せた軍馬はあたかも動く小要塞であった。突き、払い、薙ぎ、そして馬が蹴り、噛みつき、踏みつぶした。  親衛兵は全員〈王の剣士〉出身で、技量でクルヤーグに劣る者はそういない。一対一であれば、どんな魔物も敵ではないだろう。  ただ、あまりにも数が多い。一騎当千の強者揃いといっても、尽きることなく湧いて出る魔物たちを相手にしつづけるのは辛かった。気力と体力の限界を測られているようなものだ。  ――まあ、これだけ敵の層が厚ければ、馬鹿が勝手に陣から飛び出すこともできないのが救いだな。  ソグヤム程度の腕前では、おいそれと前に進むこともできまい。  ――しかし、敵が多過ぎるな。  今までになく、層が厚い。まるで、こちらの大将が出撃したのを知っていて、全力で攻勢をかけてきているかのようだ。  まさか、とクルヤーグは自身の疑念を笑いと飛ばした。 「進め、進め!」  怯むな、と声をかけながら、みずから前へ出る。敵を倒せば次の敵が、それを倒せばまた次の敵が。尽きることなく出現する眼前の敵を倒しつづけ、じりじりとではあれ、陣を進める。  相手の息の根を止める必要はない。戦闘力を削いだら後続にまかせる。その程度の心づもりでいないと、たぶん、もたない。 「隊長、矢が尽きました」 「かまわん、上には構うな、進め!」  思ったよりも数が多い。ソグヤムの予測も、はずれるかもしれない。鶏が出現しはじめて、まだ十日ほどか。その間、出撃回数は二回。これが三回めだ。二回の体験を思い返せば、たしかにソグヤムの言は理にかなっている。  だが、三回めが同じようになるとは限らない。  頭の隅で考えながら、しかし、信じようと思う。いや、信じているのだ。でなければ、さらに陣を進めようとはしない。すぐさま退却に移っている。 「進めーっ!」  ダンナガンが号令する。  角笛が鳴る。馬たちが耳を動かす。前へ、横へ、後ろへ。馬体から湯気がたちのぼる。  不吉な羽撃きの音が、上空を埋める。 「斬り進め!」  クルヤーグは槍を捨てた。負担に耐えかね、折れてしまったからだ。我知らず、口の端に笑みが浮かんだ。ちょうどいい。使い慣れた剣を鞘から引き抜くや、もう獲物を刃にかけていた。 「右翼、突出するな!」  ダンナガンが吠え、馬の嘶きがそれをかき消す。やられたな、と頭の隅で思う。誰かの馬が、やられた。  思いながら、盾は上空から襲ってきた嘴をはじき返し、剣はそれ事態が意志を持つように動き、反対側からかかってきた猿の腕を斬りとばした。  魔物が吠える。戦士たちが雄叫びをあげる。武具が鳴り、角笛が響き、号令がくだされ、断末魔の悲鳴が大気を割る。 「持ちこたえろ!」  叫んで、剣を揮う。  いつのまにか、上空からの圧力が消えている。ソグヤムの予測通り、飛ぶ魔物が退却を始めたのだ。  剣をふり回して敵を後退させると、クルヤーグは背後をふり返った。  従兄弟がちゃんとそこに控えているのを知って、クルヤーグは安堵の息を漏らした。馬を下げて領王に並ぶと、隙間を別の騎士が埋めた。 「翼ある魔物が引いたぞ」 「そうだな」  だから言っただろう、とソグヤムは言わない。推測が現実になっただけで、今さら確認するまでもないとでも思っているのだろう。 「鶏狩りに移ろう。居場所に間違いはないのだな」 「あれがエウナキアなら、出現した場所からけっして動かない」  エウナキアと呼ばれる魔物でなければどうなのかを、ソグヤムは語らなかった。そんなものは、事前の軍議で出尽くした。絶対に、と領王は断言した。絶対にあれはエウナキアだ。  言葉の力でその声を操った、とソグヤムは説明した。エウナキアの声をと書いて、鶏の声に作用したのだから、間違いない。示された〈本〉に書かれた文字は、クルヤーグにはもちろん、軍議に参加した誰にもろくに読みとけぬものだった。証人も、ソグヤム自身しかいない。  だが、クルヤーグは信じた。ソグヤムを。 「では、圧力を上げて前へ押し出した後、退路の確保に入ります。陛下には護衛をつけます。地図は示してありますが、方向の指示はご自分でなさってください」 「わかった」  ラギン、と呼ぶと、若い剣士はほどなく姿をあらわした。銀光をはなっていた鎧は魔物の体液を浴びてすっかり変色しているが、まだかすり傷くらいしか負っていないようだ。 「陛下のご指示に従って進め。ただ、無理だと思ったら逆らっても戻って来い。いいな」 「わかりました、隊長」  ソグヤムはなにか反論しようとして、諦めたらしい。兜の下から覗く眼は、あきらかに非難がましくクルヤーグを見ていたが、知ったことか、と彼は思う。  合図をすると、従卒が駆け寄り、小箱をとり出してその中身を領王にかけた。銀粉が兜やマント、鎧の表面を覆い、淡いかがやきをはなつ。  この程度で大丈夫なのか、とクルヤーグは自問する。大丈夫なはずがない。しかし、ラギンと配下の者が周囲をかため、全軍でこの一隊を押し出すのだ。乱戦になる。狙いが鶏と相手に知られづらいように、とソグヤムが主張を押し通し、それに沿ってクルヤーグらが計画を整えた。  魔物にも知性がある、とソグヤムはくり返し主張した。かれらも陣を組み、作戦を立てる。そして今、この軍の大将は鶏だ。大将首を狙いに行ったと知れたら、猛攻を受けるだろう。幸い、組織立った情報の収集や分析までは行えていないようだ、ちょっと乱戦に持ち込んで、目立たぬように少人数で行けば、なんとかなる。 「退却の合図は」 「さんざん練習させられた笛だろう? もちろん持っている」  鶏を視認したらソグヤムが笛を吹く。それが退却の合図だ。鶏が鳴く前に、すみやかに退却せねばならない。 「目的を達したら、すぐに、お願いします」 「わかった、わかった」  クルヤーグは念を押した。 「かならずお戻りを、陛下」 「約束だからな、努力はしよう」  ラギンは手勢を集め、ソグヤムを囲むように陣形を組んだ。早速、ソグヤムがラギンに方向を指示し、四騎は鏃の先端へ移動した。 「ダンナガン、陣形変更だ!」 「了解。陣形変更!」  角笛が合図を送る。鏃の両側が広がるまで、わずかに待って。クルヤーグはふたたび馬を進め、最前線に立った。剣を掲げ、ふり下ろす。 「突撃!」  それまでが、本気ではなかったとでもいうように――。  騎馬隊が、どっと前に出た。かがやく蹄が大地を蹴り、魔物どもの額を、胸を、脛を蹴りつけ、割り踏む。馬具の棘が、愚かしくこちらを見た魔物の眼に刺さる。騎士たちの移動は、圧力そのものだった。  ラギンが風車のように槍をふり回し、斬りこんで行く。見送りながら、クルヤーグは祈った。  ――この地に生を受け、涙と笑いを知り、老いて死んでいった者たちよ、どうかそなたらの子らや孫たちを護りたまえ。  祈るかたわら、剣は休むことなく働いていた。  ――東の涯ての守護者にして導き手である、東方月白領王の御身を護りたまえ。 「恐怖を!」  雄叫びがくちびるを割る。 「後悔を!」  馬が竿立ちになったかと思うと、冷たい蹄鉄が猿の胸板を砕いていた。のけぞった喉を、クルヤーグの剣が横に払い、首が飛んだ。 「教えてやれ、奴らに!」  ソグヤムが言うように、魔物にも知恵があり、ものを考えて行動すくというのなら。  ――二度と襲おうと思わぬほどに、怯えさせればよい。 「与えてやれ、死を!」 「死を!」  剣士たちの声が唱和し、また馬群が前に進んだ。 「死を!」 7  駆け込んだ背後で、重い音をたてて門が閉じた。胸壁では射撃がつづいている。近寄った魔物は、息の根をとめておかねばならない。鶏が鳴くのはもうじきだ。骸は毒を吐かない。  すぐに従卒が寄ってきて、馬の轡を取った。  生き延びていたか、と頭の片隅で考える。痺れたようになっていて、うまく思考がまとまらない。 「ご無事で」  眼をしばたたいた。ダンナガンだ、と気づくのに少し時間がかかった。 「ああ。お主もな」  なにか言い忘れていると気づいたが、思考が追いつくより早く、くちびるから言葉が飛び出していた。 「損害は」 「まだ詳しいことは。歩兵はまず九割帰還した様子です。騎兵はよくない」 「そうか。思いのほか反攻が激しかったな」 「陛下がおっしゃるように、まるで魔物どもが……彼奴らの親玉を狙いに行ったと悟ったような……そんな戦いぶりでしたな」  クルヤーグは無言でうなずいた。先に帰投した部下たちの多くは、まだこの場に留まっているようだ。しかし、傷を負って治療のため運ばれた者、運んだ者らはここにはいないだろう。 「ラギンは」 「戻っておりませんな」  即答だった。ダンナガンも、気にしていたのだろう。 「そうか」  ソグヤムが戻っていないのに気づいたとき、ラギンはなにをしているのだと思った。そしてほぼ同時に、なにもできない状況なのだろう、と納得した。  つまり、死んだか、瀕死の重傷を負ったか。戻っていないのなら、死んだも同然だ。もしまだ生きていても、運び込まれていなければ生き延びる可能性はない。  クルヤーグは顔を上げ、ダンナガンの肩をかるく叩くと、ソグヤムの方へ歩きだした。領王はまだ鞍上にいる。歩兵の装備をつけた兵士が同乗していた。  ――東涯郡の者だな。  あざやかな色の羽飾りが、兜の下から覗いていた。それでか、と納得する。歩兵とは思えぬほど、あの状況でよく馬を御していた。  考えねばならないな、とクルヤーグは思った。あの乗馬術は、歩兵には惜しい。彼と同様の技術の持ち主が、まだ何人も歩兵のなかに埋もれているに違いなかった。  機動力を重視した部隊を作れるかもしれない、と考えてみる。戦士としての戦闘力よりも、馬での移動速度を武器とした部隊だ。あとでダンナガンに相談せねば。 「失礼しました、陛下」  おそらく、今になってソグヤムの正体を知ったのだろう。兵士の声には、おどろきと、少々の脅えが感じとれた。 「いや。ご指摘ごもっとも、だ」  最前線で孤立していた男を助けたら主君でした、だ。おどろかない方がおかしい。  慣れているクルヤーグだとて、ソグヤムのやることは予見できない。今回の出陣と、その目論見がまさにそれだ。 「君の名はウルバンというのか」  つぶやいて、ソグヤムはクルヤーグを見た。魔物の体液で汚れた顔の中で、眼だけが明るい。こんな戦場を体験したのははじめてのはずだが、怖じていない。 「成功だ。ありがとう、無理を聞いてくれて」  ――見えたのか。  策戦は、成功した。これで、クルヤーグが協力できる部分は終わった。あとは、ソグヤムがひとりでやらねばならない。  ほんとうにできるのか、と再度問いただしたいのをこらえ、彼は無表情に答えた。 「なによりです、陛下」 「なによりと思っているように聞こえないな」  苦笑して、ようやくソグヤムは下馬した。見たところ、動きに不自然なところはない。疲労は伺えるが、それはしかたのないことだ。大きな怪我さえしていなければ、上等だろう。 「はっきりご覧になれましたか」 「あの明るさで見られる限界まで。悪いが、兵たちの慰労をたのむ……ああ」  立ち去りかけて、ソグヤムは動きを止めた。クルヤーグは黙ってつづきを待った。どうせ、思いがけないことを言うに決まっている。あまり無茶なことでなければいいが、と考えた。 「この兵を借りて行っていいかな」  この兵、というのが誰かわからず、わずかに躊躇した。かたわらで身じろぎした気配に、なるほど、と納得した。この歩兵か。  ――なんだ、それくらいのことか。  ほっとした自分が妙におかしい。笑いの発作に襲われかけたが、さすがに戦闘直後、ここで笑いはじめるわけにもいくまい。親衛隊長にして騎馬隊長、領王の従兄弟で〈王の剣士〉でもある男が、かわいそうに戦の恐怖で気がふれたようだ、と思われるのがオチだ。  クルヤーグは顔をしかめ、髭をしごくふりをして、なんとかくちもとの痙攣をごまかした。 「歩兵ですな。結構、歩兵長のダンナガンにはわたしから話しましょう」  歩兵長で、騎馬隊の副隊長。ほかに任せられる者がいない。人が少ない、あまりにもたりない、とクルヤーグは考えた。みんな疲れている。当然、ダンナガンもだろう。休む暇もない――思いついて、条件をつける。 「しかしまず、着替えをさせてください。陛下もですが」  これくらい明確に言っておかないと、ソグヤム自身はもちろん、連れて行かれた兵士も休めないはずだ。 「わかったわかった、責任をもってなんとかする。じゃあウルバン、館までいっしょに行こう」  若い歩兵は、目に見えてたじろいだ。絞りだすように、ようやく声をあげる。 「ですが陛下、わたしは馬の世話を――」  クルヤーグはウルバンという若い兵が気の毒になった。いきなり領王から名指しで呼ばれて、まるで友だち扱いだ。肩を叩いて励ましてやりたいくらいだが、そんなことをしても、ますます恐れおののくだけだろう。 「馬なら当番兵にまかせておけ」  さっさと歩きだしたソグヤムの背を見送ることなく、クルヤーグは踵を返し、兵たちのようすを見るべく歩きだした。いつのまにか、従卒が背後に控えている。  無事帰投した兵たちを集めろ、と命じかけて、クルヤーグは躊躇した。  ――名はなんといったか。  覚えていたはずなのに、もう忘れそうだった。  ソグヤムなら顔を見れば読みとれるのだろうが、彼にはそんな芸当はできない。そういえば、ソグヤムがひとめで読みとったのだから、この従卒はきっと、素直で自然な人物なのだろう。 「お前」  声をかけると、従卒は姿勢を正した。鎧に塗布した銀粉はあらかた剥がれ落ち、魔物の体液や血がこびりついている。  少し考えて、クルヤーグは小さく息をついた。 「すまん、まだ覚えられなくてな。名はなんという」 「マニンです」 「……ああ、そうだったな。マニン、帰投した兵たちを集めてくれ。歩兵はダンナガンにまかせていい、騎馬の兵だけで。治療を受けている者は呼ばなくていい、元気な者だけで。そちらへは、あとでおれが足を運ぶ」 「はい」 「それと、声をかけながら、人数も数えろ」 「かしこまりました」  マニンを行かせると、クルヤーグは壁に寄りかかり、暫しの休息をとった。  もう鶏は鳴いただろうか。そろそろ、鳴いていてもおかしくはない頃合いだ。飛ぶ魔物が姿を消してから、ずいぶんたっている。  だが、胸壁からはまだ弓を射る音がやまない。クルヤーグの半分ほどしか背丈のない少年が、補充の矢筒を手に階段を駆け上がる。  ――今朝は、ちょっと遅く鳴くようにしてある。  ソグヤムの言葉を、思いだした。あれは昨夜のことだ。  ――鳴かない、とは書けなかったがね。それは姿を見るまで無理かもしれない。姿を見ても、できないのかもしれないが。  でも、とソグヤムはつづけた。  ――やってみなければ。  どこまで行く気だ、とクルヤーグはひそかに問うた。心の中で。  お前はどこまで行く気だ、ソグヤム。ものの名を読み取り、世界を書き換えて。行き着く先がこの東の領王位とは、誰も思いはするまい。  ――厄介なことになるぞ。  たとえソグヤム自身がそれ以上を望まなくとも、彼の異能が知れれば、王は動くはずだ。あるいは、王太子が。 8  ソグヤムが成人するまで、結婚はしない。そう決めて守り通したのだから、あれはソグヤムが十五のころのことだろう。  いつものように月白領に戻ったクルヤーグは、ソグヤムにさかんにからかわれ、いささか閉口しながら任務をこなしていた。  まだ領王妃は存命だった。 「あの子も寂しいのでしょう」  あるとき、そんなことを言われた。 「寂しい?」  思わず問い返すと、領王妃は眼を伏せた。そうすると、よけいにソグヤムに似ていた。 「あなたが、ここより王都の方が大事になってしまったのではないかと、心配なのですわ」  ――たとえば、王様とわたしの父上とが争ったら、兄上は王様にお味方なさる。  領王妃の言葉にそんな含みがないと知っていても、心は揺れた。 「そんなことはない、などと言っては駄目ですよ」  悪戯っぽい笑みを浮かべれば、少女のようだ。 「は……」 「あなたの大切な人を、いちばんに考えておあげなさい。わたくしたちのことは、後回しにしてあげて。そのかたより月白領の方が大事だなんて、言っては駄目よ」  なんと答えていいかわからず、クルヤーグはただ一礼した。こんな領王妃は珍しい、と思う。いつもはもの静かで、ほとんど喋りはしないのだ――いや、そういえば。  ――王都でお会いしたときは、ずいぶん快活なご様子だった。  生まれ故郷に帰ったことがそうさせたのか、まるで違う人物のように見えたな、と思い返す。 「ごめんなさいね、無駄話ばかり長くなって。ソグヤムにたのまれたのだけれど、首飾りを探しているのですって?」 「いえ、とくに首飾りとは……」  とぼけた品を送って来たと評されたのが、案外、クルヤーグの中では重たい記憶になっていた。  もうじき、親衛兵としての任期が切れて、王都に戻る。土産を持ち帰ろうと思いついたまではよかったのだが。  商人の口上よろしく広げられる品々を見ても、これがよい、と選べない。王都で売っているものと比べると、粗野で洗練されていないと思われるのではないか。 「なにかを贈ってくれようという心配りだけで、女は嬉しいものですけれどね。でも……もちろん、贈っていただいたものが素敵な品であれば、もっと嬉しいわね?」 「はい」  領王妃はにこりと笑った。 「わたくしの母から譲り受けた首飾りがありますのよ。古風だけれど、使っている石自体は由緒のあるものです。魔除けにもなるそうよ」  クルヤーグはおどろいた。  領王妃がその母から伝えられた……などという由緒のあるものは、到底受け取れない。それでは、領王妃の地位を彼の妻となる女性に約束したも同然だ。 「いえ、そのような品をいただくのは、畏れ多いことです」 「遠慮なさらないで。いちばんよいものをあなたに渡さないと、ソグヤムに叱られるわ」 「ですが、妃殿下」 「塔の宝物庫にしまってあるの。どうしても嫌だというなら、ほかの品もあってよ。鍵を用意してあるから、ソグヤムと行って、好きなものをお選びなさい」  どうせあの子は、扉の外で待ってるでしょうから、と領王妃は侍女を呼び寄せ、銀盆に載せて捧げられた鍵をとった。彼女の白くほそい指には不釣り合いなほど、重たげで、黒ずんだ鍵だった。 「お持ちなさい」 「かたじけなく存じます」  彼女が勧めた品だけは選べない、と告げるべきか。暫し迷ったが、結局クルヤーグは無言で一礼し、部屋を出た。  扉の外には、領王妃が指摘した通り、ソグヤムが待っていた。 「アウラの首飾りをくださるって?」 「そういう名前なのか。お前と行って選べ、と言われた」  このころ、クルヤーグはソグヤムに対し、あまり敬語をもちいた記憶がない。たぶん、気が緩んでいたのだろう。 「喜んでお供つかまつりますよ、従兄弟殿」 「暇なはずないだろう」 「そんなもの。暇というのは、みずから作るものだろう? さて、行こうか」  宝物庫につづく階段を登りながら雑談ができるほど、ソグヤムは身体を鍛えていない。目的地に着くまでは、静かに過ごせた。  そのあいだに、クルヤーグは考えていた。  なにかが、おかしい。  ソグヤムがたのんだというだけの理由で、領王妃はそんないわくのある首飾りを譲るだろうか。まさかとは思うが、次代の領王をクルヤーグにという勢力が、無視できないほど盛り返していると考えてみるのはどうだ。いや、そんな者の接触はなかった――クルヤーグは考えつづける――そういう動きがあれば、当座はその目をあざむくために、クルヤーグに首飾りを渡すということは考えられる。いや、それとも自分は試されているのか。  叛心の有無を。領王位への野心を抱いているか否かを……。  宝物庫の扉は思いのほか軽く開いた。誰かが定期的に手入れをしているのだろう、蝶番は軋みもしない。  部屋は狭く、窓はない。持ち込んだ灯火を小さな机の上に置くと、クルヤーグは室内を見回した。領王妃が輿入れのときに持って来たらしい品が目につく。王都の諸侯のなかでも有力な家門の記旗、長い道中を安全にとしつらえられた、銀の飾りもにぎにぎしい馬具。式典用の刀剣類は、壁の金具に掛けられている。  宝物庫に衛兵もなく遣わして、自由に選べと命ずる。どう考えても、なんらかの試練だ。あるいは、たくらみ。  遅れて入って来たソグヤムが、大きく息をついて床に座りこんだ。 「ちょっと……待って……」  クルヤーグは黙って待ち、ソグヤムは机に手をかけた。 「あそこにある、ほら、黒っぽい櫃の中だ」  示された方向には、五段重ねのどっしりとした箱があった。飾り金具の銀が曇っていないのは、蝶番が錆びていなかったのと同様、定期的に手入れがされているのだろう。黒い木肌によく映えて、実に美しい。下段は子供でも入れそうなほど大きいが、上へ行くにつれ小さくなり、最上段は小脇に抱えられる程度の大きさしかない。 「上のか」 「そう。あの中に入っているそうだ」 「ほかのも?」 「ほかの? まあ、ひとつきりではないだろうが、選べるほどの数はないはずだ、ここには」  やはり、なにかがおかしいと思う。だが、それがなんなのかが掴めない。罠にはまっていくような気分に陥りながら、しかし、罠自体を見極められずにいる。これでは、逃れる方法もみつからない。  クルヤーグは小箱を取ると、机の上に置いた。 「開けていいか」 「鍵がかかっているんだ。わたしが開けよう」  よいしょと声をかけて立ち上がると、ソグヤムは蓋の蝶番にふれ、ついで口を閉じている金具の上で、図形を描くように指を動かした。 「母上のご実家の血を引いている者でないと、これは開けられないそうだ。というわけで、この箱は譲れないそうだよ」  あっけなく、蓋は開いた。  小箱の中には、さらに小さな箱がいくつか入っていた。開けてみると、どれも美しい宝飾品のたぐいだ。クルヤーグの給金では購えそうもない品ばかりだ。それくらいは、見ればわかる。 「これだったかな……いや、違うな」 「いい、探すな。今あるのでも、ただの土産にはもったいない。妃殿下には申しわけないが、お断りしてこよう」 「そんな失礼な」 「お前に言われたくない」 「なぜだ。おい待て、従兄弟殿。なぜ嫌がる」 「物騒な品だ、受け取りたくない」  ため息をついて、ソグヤムは肩の力を抜いた。 「そうだな。わたしもそう思う」  少なからず、クルヤーグはおどろいた。 「お前の案ではなかったのか」 「おい、傷つくぞ。わたしたちのあいだには、合意があるはずだろう? わたしは今でも、領王位を継ぐのは従兄弟殿であるべきだと思っている。だが、王都から横やりが入ることを考えれば、わたしたちふたりで決められる問題ではないことぐらい、ちゃんと認識している」 「では、妃殿下が?」  ソグヤムは渋い顔をして、うなずいた。 「わたしは、ちょっとしたものをお譲りいただけないかと相談したのだ。従兄弟殿の大切な女性に、どれだけ真面目に想っているかを伝えるには、母上からなにかいただくのが最善かと。これでもきちんと考えたのだぞ」 「ああ、それはありがたいが……しかし」 「しかし、だなぁ。母上も、いったいなにを考えておいでなのやら。だいたい、宝物箱にこんなに紙を――」  ソグヤムの声が途切れた。 「どうした」  不審に思って呼びかけると、ソグヤムははっとして、クルヤーグを見た。一瞬の躊躇の後、手にした紙をクルヤーグに見せた。  流れるように美しい手跡に、見覚えがあった。 『誰よりもいとしい者へ。  そなたを遠ざけねばならなかったことを、許してくれ。  わかってくれとはたのまぬ。ただ許してくれ。  王妃の妬心がおそろしい。知られれば、そなたの命がない。  かたわらに、いつもそなたを想う。  そなたこそが我が妃、そなたが産む子こそ我が息子。  いつも想っている。  けっして、忘れはしない。  弟に託しておいて、わたしは彼に嫉妬している。  この先の人生を、そなたとともに過ごせるのだから……。  わたしは心に思い描いたそなたをかたわらに置くことしかできぬ。  それでも、そなたの生を断ち切るよりはましだ。  遠くにあっても、無事でいてくれることを望む。  どうか許してくれ、わたしが王であることを許してくれ』  意味を呑みこめるまでに、時間が必要だった。  なにが書かれているかは明白なのに、頭が拒否するのだ。  ソグヤムは、別の一葉をとりあげていた。これにも同じように流麗な筆跡が見える。 『誰よりも愛しい者よ  遠くにあっても、我が心はつねにそなたのもとにある。  とはいえ、わたしは老いた。  まだ壮健だと皆が言う。  しかし、心の老いは如何ともしがたい。  そなたを失ってから、我が人生からは光が失われたようだ。  男子出産の報へ、正式な祝賀の使者を遣わした。  まさか本人も、そのついでに恋文を運ばされているとは思うまい。  母子ともに健康とのこと、わたしがどれほど喜んだか。  そして、この腕にそなたらを抱けぬことを、どれほど哀しんだか』  とっさに、紙をめくるソグヤムの手を止めた。遅過ぎた、と思いながら。 「読むな」 「これは……本物だな。ああ、本物だ」 「ソグヤム」  名を呼ぶと、ようやくソグヤムは顔を上げた。眼が赤い。 「本物だろうか、と疑うこともできない自分を憎むね」 「偽物かもしれない」 「それはない。この手跡は王のものだ。母上は、これをわたしたちに見せようとしていたんだ」 「ソグヤム」  目尻から、涙がころがり落ちた。 「領王位などお前にくれてやる、自分の息子はほんとうは王の子なのだから、と言いたかったんだ」 「まさか」  そんな浅はかな、と言いかけた言葉を呑みこんだ。いくらなんでも、ソグヤムの母を貶めるわけにはいかない。  だが、ソグヤムは彼が口ごもった様子にすら気づかないようだった。もうクルヤーグを見てもいない。視線は箱に戻っていた。 「王都から、密使が来ている」 「そんな話は聞いていない」 「密使だと言っただろう! 密使が到着をふれまわるか!?」  叫んですぐ、ソグヤムは表情をあらためた。すまない、と小さく謝った。 「かまわん。今のはあきらかに、おれが馬鹿だった。しかし、だからと言って――」 「さっき母上に、また王都へ行きたくないかと訊かれた。悪くないですね、とわたしは答えた」  静かに告げる口調からは、ソグヤムが激していることなど伝わらない。だが、涙はまだ流れていた。 「母上は、王の横に席を占めるつもりだ」 「ソグヤム、勝手な推測で妃殿下を貶めてはいけない」 「間違いない。わたしは母上をよく知っている。……いや、知っていると思っていたが、よりよく理解できるようになった……くやしいな。もっと早く、気がつけたはずだ。わかってみれば、なにもかも、あからさまだったのに」  袖で頬を拭い、すっかり騙されたな、とつぶやいて、ソグヤムはクルヤーグに視線を戻した。 「どうする」 「どうする、とは?」 「母上は、父上を殺せとおっしゃっているのだよ。ああ、父と呼んでは混乱するか。領王陛下の方だ、この場合は」  クルヤーグは一瞬、言葉を失った。あまりに、それは先走った憶測ではないか。 「ソグヤム!」 「わたしが領王陛下を殺すと言ったら、従兄弟殿は協力してくれるのかな」  思わず、相手の襟首を掴んだ。そして、まだ平静な表情を崩さないソグヤムに、噛み付くように告げた。 「誰がするか!」 「では領王陛下をお護りして戦うのか」 「お前がそんな戯けたことをしでかさぬよう、正気づかせるに決まってるだろうが、この馬鹿が!」  ソグヤムは眼をみはっただけで、なにも答えなかった。  暫くして、クルヤーグは吊り上げたソグヤムの身体を持て余し、咳払いをして尋ねた。 「それで。どうしたいんだ、ほんとうは。まさか、本気ではなかろうな」 9  不意に、ソグヤムは笑いはじめた。 「従兄弟殿には、かなわないな」 「背丈と体重と力でならお前に負ける気はせん」  できるだけ軽い口調で返し、クルヤーグは襟元を掴んでいた手をはなした。ソグヤムは、まだ笑っている。 「そんな一目瞭然のことについて言っているんじゃないよ。いや、うん、そうだ。本気じゃない。でもね、母上はたぶん、本気だ」  だから、と彼はようやく笑いをおさめて告げた。 「命を取るまではしなくても、あの人を、なんとかする必要はあるよ。それくらいは、わかるだろう?」 「それは……」  クルヤーグは、口ごもった。指摘されれば、もっともなことだ。いきなり、かれらにこの書状を見せるような行為だけでも、領王妃は厳重な監視下に置かれるべきと判断できる。もし、ソグヤムが言うようなことを望んでいるのであれば、剣呑どころの騒ぎではない。そして、あの領王妃が謀略に向いているとも思えず、既にどこかで危険な手を打っているかもしれなかった。  へたなことをすれば、ソグヤムの命が危ない。 「やれやれ。誰がどれだけ信用できるかの見極めを、早めにつけられて幸いだ。……とでも、考えることにするか」  しかたない、と肩をすくめ、ソグヤムは紙束を箱に戻し、きっちり蓋を閉めた。  そして、俯いた。 「それにしても……困ったな」  この状況で困らない方が、どうかしている。クルヤーグは、ソグヤムの肩に手をかけた。 「なにも考えるな」 「無理だよ」 「知らなかったことにすればいい」 「無理だ」 「箱の蓋は、開かなかった」 「それも無理」 「では、お前は中を見なかった」 「あり得ないよ」 「おれは、お前を裏切らない」 「……」  ソグヤムの手が、ふるえていた。手だけではない。身体全体が、ふるえていた。 「誓うから」  父と思っていた人が父ではなかったと知らされた。母と思っていた人が父以外の男に惚れ、子を生し、その子が自分だと知らされた。そして、母はその男のもとへ戻りたいと願っていることも感づいた。  位がどうのという話を抜きにしても、これはあまりにも……。  ――ひどい。  きっとソグヤムは、根を引き抜かれたような気分だろう。事を分け、母親の口から説明してもらえたわけでもない。母に宛てた恋文を読まされただけだ。  親を信じられなければ、子はなにを信じられるだろうか。 「誓うから、ソグヤム」  自分の声が聞こえるかどうか、疑いながらくり返した。耳に届いても、心には届かないのではないかとあやぶみながら。  もとよりかれらは他人同士、血のつながりなどない。その自分がなにを言っても、詮無いことではないかとも思った。  だが、伝えておきたかった。 「誓うから。おれはお前を裏切らないと、約束するから」  だから、自分がひとりきりだなどと思うな。  信じられるものが、この世にないなどと、諦めるな。  ……そこまでは口にできないまま、クルヤーグは声に力をこめた。 「ソグヤム」 「……聞こえてるよ、従兄弟殿」  ようやく顔を上げたソグヤムは、まだぼんやりと焦点のあわない眼で空中を見ていたが、やがてつぶやいた。 「何度もくり返さなくてもいい。君を信じるよ、ことによると自分自身よりもね」  なんのてらいもなく言われて、却ってクルヤーグが面食らった。 「いや……そうか。ありがとうと言うのかな、こういう場合」 「さあ? それより、急がないとな。具体策を考えて、早急に手をうたないと。あのかたが、なにをなさるかわからない」  ――あのかた、か。  母とは呼びたくないのだろう。無理もないことかもしれないが、悪い兆候ではないだろうか。 「ソグヤム」 「ん?」 「お前の母上なのだぞ」 「わかってるよ」 「おれには、わからんのだが」 「なにが?」  説明しようとして、クルヤーグは諦めた。 「なにもかもだ」 「それは、単純な世界で羨ましいね」  憎まれ口をききながら、ソグヤムはどこか上の空といった体だ。おそらく、どう対処するのが最善かを考えているのだろう。  正直なところ、クルヤーグには名案などない。ただ、ソグヤムの側にいて支えてやれればと思うだけだが、クルヤーグの任期が切れるのは翌日で、王都への帰還の手配も既に終わっていた。 「ともかく、同僚に話してこよう」 「なにを?」 「先に帰還してもらう」 「それは駄目だ」  遅らせる必要はない、とソグヤムは即断した。 「しかし」 「不自然な行動は、とるべきじゃない」 「だが、妃殿下の件は」 「それは、わたしがなんとかする」  クルヤーグの視線を受け止め、ソグヤムは既に苦笑する余裕すらとり戻していた。従兄弟殿、と彼は笑いながら呼びかけた。 「なんだ」 「それより大事なことがあるだろう」  ないぞ、と即答しかけてクルヤーグは口をつぐみ、一応、考えてみた。だが、心当たりがない。 「わからん。なにかあるか」 「贈り物を探さないと」 「贈り物?」  呆れたな、という顔をしてソグヤムは首をふった。 「そこから始まったのに! 気のきいた土産物を、って話だったはずだよ」 「ああ、……そういえば」 「そういえば? 言いつけるよ、次に会うときに」 「ふざけている場合じゃないだろう。なんとかするって、ソグヤム――」 「わたしは従兄弟殿を信じるから、従兄弟殿もわたしを信じてもらえるかな」  真面目に切り返され、クルヤーグはまた言葉を失った。  ソグヤムの表情は,するどい。ふれれば切れそうなほどだ。 「……信じている」 「では、わたしにまかせてほしい」 「それとこれとは話が別だ」 「別じゃない。同じだ。従兄弟殿が信じてくれれば、わたしもその信頼に値する人間であるように努力する」  そのときほど我慢を試されたことはなかった、とクルヤーグは思う。  言いたいことは、いくらでもあった。  だが、くどくどと言葉にして伝え、自分の考えを押しつけようとすることこそが、ソグヤムを信頼していないことになるのだと、わかってもいた。  ――おれは今、なにを言おうとしていた。  殺してくれるな、と。  口にすれば、ソグヤムが実母を殺しかねないと疑っていることになる。そうと悟って、事前に口を封じたソグヤムの心境を考えると、自分で自分を殴りたくなる。  ――だが、大丈夫なのか。  同時に、その点では彼を信じきれない自分がいる。  ――馬鹿な。  疑う方がおかしい。領王妃はソグヤムの実の母なのだ。  ――それすらも偽りでなければ、だが……。  馬鹿らしい、とクルヤーグは思った。あまりにも馬鹿らしい。 「母上、か……」 「それは間違いないだろうね。この箱が、開いたのだし」  かるい口調でソグヤムに言われて、ようやく思いだした。そうだった。同じ血を引いている者だけに開けられる箱。  実母であることに、間違いはないのだろう。たぶん。 「おれは、お前の力にはなれんのか」  とんでもない、とソグヤムは笑った。 「従兄弟殿、わかってないな」 「ああ、そうとも。おれにはわからん!」 「……従兄弟殿?」  ――おれも、混乱しているのだ。  それとて、無理のないことに思えた。なにがいちばんいいのか、悪いのか、見極めなどできない。 「すまん。だが、わからんのだ。ほんとうに、お前を置いて行ってもいいのか、自信が持てん」 「自分を信じられないなら、わたしを信じればいいよ」  実になんでもないことのように、ソグヤムは言ってのけた。  そして、唖然としているクルヤーグに笑いかけた。 「さっきから、言っているだろう。従兄弟殿が信じてくれることが、わたしの支えだ。もちろん、信ずるにたらないと思われたなら、無理に信じたと言う必要はないんだ」 「いや、……」  わずかに躊躇して、それでもクルヤーグは答えた。 「約束する。偽りではなく、お前を信じる」  子どものようにうなずいて、ソグヤムは箱を手にとった。 「ありがとう。では、わたしはこれを持って母上のところへ行く。従兄弟殿は市場へ行くといいよ」 「……市場?」 「だから! なんでまた忘れるのかな」 「ああ。そうか、買い物だな。しかし……選べんぞ、おれは」  よほど情けない表情をしていたのだろう、ソグヤムは吹きだした。 「わかった、できるだけ早く後を追う。だから従兄弟殿は先に、市場へ行ってくれ。いいね?」 「できるだけ早く、な」 「そりゃもう、あたう限りね」  なにかほかに言うべきことはないかと考えあぐね、ようやくクルヤーグはこれだけ口にした。 「その言葉、信じたぞ」 10  それから何年たったのだろう。  ――十年? いや、もっと長いな。  クルヤーグは四十の声を聞いた。子も生した。だが、今でも妻に贈るものなど選べない。いつもソグヤムの力を借りていたことを白状すると、妻はおどろいて、それから笑った。  ――ソグヤム殿下にもお礼を申し上げなければなりませんわね。でもあなた、そこまでしていただかなくてもいいんですのよ。  妻は小柄な女性で、クルヤーグと並ぶと子供のようだった。親に先立たれ、後ろ盾もなく王都で苦労していた彼女と出会って、クルヤーグは変わったと思う。  心の中のどこかでつねに負い目を感じていた。親がいないこと、母の命と引き換えに生まれたことに。  彼女に出会い、言葉をかわすようになってようやく、クルヤーグは赦されたと思った。  自分は赦されたかったのだ、と知った。  ――わたくしは、自分で自分を励ましたり、叱ったりしますよ。たぶん、自分で自分の親代わりをしているのではないかしら。たまに口に出してしまって、周囲の人にびっくりされることもあったりしますけど。  急に怖い顔をつくって、彼女はいかめしく言った。  ――こら。それくらいでへこたれるな。他人のせいにしてはいかん。駄目だ、駄目だ。  次いで、微笑んだ。  ――大丈夫、誰もあなたを責めたりしない。大丈夫、きっとうまくいく。努力すればいつか、通じるわ。  それから、はじけるように笑った。  ――急にこんな風になったら、そりゃ、おどろかれますよね? でも、それで元気がつくのだから、しかたないと諦めています。あっ、でもクルヤーグ様はおやめになった方がいいわ。  なぜ、と問うと彼女は真面目に答えたものだ。  ――だって、怖いお顔がほんとうに怖いんですもの。みんな逃げてしまいます。  武人は脅えられるくらいの面構えでちょうどよいのです、と答えたあの頃からは、既に二十年近くが経過していた。  だが、そのとき彼女が教えてくれた言葉は、今も覚えている。  ――自分をたいせつに想ってくれる人がいることを忘れずにいるのって、難しいです。もしかするとそんな人、いないのかもしれないって。思ってしまったりも、します。  今のクルヤーグは確信できる。自分には、つねに心にかけてくれる人がいることを。  妻子の愛と信頼を背負い、クルヤーグは廊下を歩く。将兵たちの憎しみや恨み、畏怖を引きずる足取りは重いが、しかし着実に進む。  いつものように、彼は扉の前に立つ。 「わたしだ。入るぞ」  答えはないが、躊躇はしない。どうせ、返事がある方が稀なのだ。扉を開けると、案の定、ソグヤムはろくに休憩をとった風もなく、〈本〉に向かっている。 「ご苦労」 「どっちの台詞だ」 「お互い様だな」  ようやく顔を上げると、まあ座れ、と椅子を勧められた。腰を下ろしながら、クルヤーグは通告した。 「今、食事を運ばせる」 「いらんよ」 「食べないとそれを破く」 「野蛮だな、従兄弟殿」 「野蛮で結構。そら、来た」  彼が開け放ったままにしていた扉から、家令に率いられた少年が二人ほど入って来た。ソグヤムの許可も求めずに家令が卓上の〈本〉を何冊か閉じてかたづけ、あいた場所に少年たちが皿を並べる。 「お客人は、もうお起こししますか」 「そうだな。たのむ」  一礼して一団が退くと、クルヤーグは尋ねた。 「誰だ」 「ん? ああ、今朝の。命の恩人だよ」 「東涯郡の羊追いか」  そうだ、とうなずいてソグヤムは苦笑した。 「調べたのか」 「一応な。東涯郡・東ノ村の出身で、羊を追うのが本業だ。馬に乗りたいとは言っていたらしい」 「馬好きだ」 「そうだろうな。同じ村の出身者を見つけて、小規模な騎兵隊を組むことを考えている。あの技量の持ち主が揃っていれば、かなり縦横に戦場を駆けられるぞ」  クルヤーグの提案に、ソグヤムは眉根を寄せ、少し考えてからうなずいた。 「エウナキアが黙ってくれれば、また前のように戦うことになるからな。いいかもしれん。候補者を探して、組織してくれ」 「もうダンナガンには言ってある」 「気の早いことだ。まあしかし……彼は拾い物だな」 「なにが気に入って連れ帰った?」  命を救われたというような理由ではなかろう、とクルヤーグは見当をつけていた。ソグヤムは、そういう人間ではない。感謝の念を知らないわけではないが、自分の命には価値を置いていないのだ。  そう認めるのは、クルヤーグにとっては辛いことだが、つねに意識していなければならないとも思っていた。  ――でないと、とっさにソグヤムを止められない。 「竜使の友人のようだ。古い言葉を、一部正確に発音する。奥義を教えるくらいだから、よほど親しかったに違いない」 「竜使は東涯郡の出身なのか」 「忽然と王都に出現したと思っていたかね? 前代の竜使が東にいることまでは知っていたが、わたしも新しい竜使がどこの出身かまでは考えたことかなかった。言われてみれば、当たり前なのだがね。そもそも、竜はあそこに出たのだし」  竜か、とクルヤーグはつぶやいた。たしかに、竜が出たという噂は聞いた。村の建物が焼き払われたせいで、まとまった数の難民がここを通ったのだと。  ――ほんとうの話だったのだな。  竜など、もう伝説のなかにしか存在しない生き物だと思っていた。 「まあ、冷めないうちに食べたまえよ」  羹を勧められ、クルヤーグは眉を上げた。 「陛下の方が」 「ウルバンが来たら、また新しいのを出すよ。あの家令ならね。ぬるくなった料理は嫌いなんだ」  クルヤーグは呆れて言った。 「知ってるなら、熱いうちに食べてやれよ」  そういえばそうだな、と間抜けなことをつぶやいてソグヤムは腕を手にした。滋養たっぷりの汁だけでも啜ってくれれば、上出来というものだ。  クルヤーグは自分も腕の中身をかきこんだ。外との交通が完全に途絶え、この先確実に復旧する見通しもない今、領王は食物の配給に厳しく当たっている。誰よりもまず自分からと主張した彼の食卓は貧しい。配下の兵士たちの方が、今は贅沢なものを食べているはずだ――そのように、手配してある。 「あれほど素直に読める人物も、実に珍しい。竜使が友人に選んだのも無理はない」 「そんなに違うのか」  ソグヤムは腕を置いた。 「安心したまえ、従兄弟殿もまだちゃんと読める」 「そういえば、今朝はおれの従卒の名も読んでいたな」 「そうだったかな。さすがに今朝はいろいろなことがあり過ぎて、もう忘れた。容易に読めるなら、従卒向きだろう。たぶん」 「その、ウルバンという兵もか?」 「彼はおかしい。どうかしてる」  扉を叩く音がしたので、ふたりは口をつぐんだ。家令がウルバンを案内して来たのだ。青年を中に入れるのと同時に、さっき運んだ皿をすべて下げてしまう。なるほど、ソグヤムの読み通りだ。  しかも、皿の中を見た家令はその場ですぐ宣言した。 「次にお持ちするものは、余さずお食べください」  笑いをかみ殺していると、クルヤーグも睨まれた。 「閣下もです。今、温かいものをお持ちします」  いつも供応されているくせに、そこまで考えたことがなかったな、とクルヤーグは思った。下げたものは、下働きの者が温め直して食べるのだろう。ソグヤムが許可するくらいだから、捨てるはずはない。 「君は大きな顔をしていたまえ、わたしの命の恩人なのだから」 「はい、陛下。ですが」  ふたりの声に、我に返る。自分のかたわらに空いた椅子に、入って来た青年はまだ腰掛けていない。遠慮しているのか、と考えるあいだにソグヤムが畳み掛ける。 「しかも、わたしの試みが成功すれば、全員の命の恩人になるわけだ。それから、わたしのことを陛下と呼ぶのもやめてくれ。まだ正式に領王位に就いたわけではないしね」  馬鹿が、とクルヤーグは思った。まったく、わかっていない。 「殿下とお呼びすればよい」 「いやがらせかい、クルヤーグ」 「まさか」  もういちど、頭の中でソグヤムを馬鹿呼ばわりしてやった。それでもこらえきれず、ため息が漏れた。 「陛下も殿下も結構、わたしはそういう厄介な敬称は嫌いなんだ。従兄弟殿、面倒なことはすべて抜きにするという約束でわたしがここにいるということを、お忘れなきよう」  どうしてこういう根本的なことを、この聡明な人物は簡単に意識の外に置けるのか。 「敬称の省略は、この者を困らせる以外の役には立たんぞ」 「そういうものかね」  そこでまた、ウルバンに直接尋ねる。身分の垣根を意識しないのは本人の自由だが、直接声をかけられて当惑する側の気もちを推し量れないのは、彼の欠点だ。  返事に詰まったウルバンに困ったらしく、ソグヤムはクルヤーグを見た。声には出さず、口だけ動かして、馬鹿、と教えてやる。  ソグヤムは、ため息をついた。 「なるほど、そういうものか。面倒だな、まあいい、それならわたしを陛下と呼ぶことを許そう」  青年がほっとした気配が伝わってきた。横にいたクルヤーグも肩の力を抜いた。こんな馬鹿なことで時間をとることこそ、馬鹿らしい。 「陛下、もしよろしければ、お名前をお呼びいたしましょうか。ソグヤムさま、と」 「ああ、それがいいな」  領王は即答し、クルヤーグは眼をみはった。そう来たか。  ――変わった人物なのかもしれない、たしかに。  ようやく椅子に腰を下ろしたウルバンは、いかにも実直そうな顔つきをしている。ソグヤムほどの眼力がなくとも、これは信用できそうだと思う。愚かさゆえの過ちを犯すことはあっても、悪意で人を陥れることはないだろう。 「解決策がみつかったところで、本題に――」  ソグヤムが本気で喋りはじめようとしたところに、家令が入って来た。湯気のたつ腕や、干した果物を盛った皿を手に、無表情に立っている。  食べないと殺される、という雰囲気だ。 「――すまない、軽食をとるように言われていたのだった。君らもどうだね」  さすがに家令の命令に背く元気はないらしく、暫くはおとなしく食事がつづいた。だいたい片付いたところで、例によってなんの脈絡もなく、ソグヤムがつぶやいた。 「兵糧の点は問題ない」  果物を齧りながら、指先でつまんだ蔕を見ている。兵糧に言及するのだから、ソグヤムの措置がうまくいかず、篭城戦がつづく場合を考えているのだろう、と見当をつけて答える。 「では、かたく護って待てばよい。王都とて、連絡が途絶えれば不審に思わぬはずがなかろう」 「わたしはね、クルヤーグ、他人に期待をしないことにしているのだ」 「陛下」  たしなめるように言うと、ソグヤムは眉を寄せた。 「だから。同族の君にまで『陛下』呼ばわりされる理由はないぞ」 「相応の期待は持ってしかるべきです」 「ほんとうに鬱陶しい男だな、君は。いいか、期待もなにも、まだ封鎖がはじまって十日だ。王都がちょうどその日にこちらに使者を出していたとしてもようやく今日着くかどうか、さらに戻ってしかるべきとかれらが考えるまで十日、おかしいと感じるまでに誤差も含めてまた十日はかかると考えるべきだろう。それを待てと?」 「王都が気づかずとも、西郡で気がつきます」 「西郡の郡都から使者が出てだいたい王都まで五日、しかし王都からまず来るのは確認する程度の兵だろう。それすら来ればよい方だ、あちらはあちらで北方からの侵攻に備えているはずだから。……鶏の声には、人を発狂に追いこむ力がある。このままでは、我らは全員気がふれてしまう」 「そうとも限りません」 「この話はここまで」  ぴしゃりと言われて、クルヤーグは口をつぐんだ。こういうときのソグヤムに逆らっても無駄だ。  傍らで、ウルバンが緊張しているのがわかる。気の毒にと思うが、どうにもできない。  ソグヤムに関わったのが、運の変わり目だ。幸運とも不運とも言えないが、とにかく尋常でない状況には慣れねばなるまい。ソグヤムは、この青年を気に入ったようだから。  黙って待っていると、ソグヤムは口調をあらためて語りかけてきた。 「今朝の作戦では、無理をかけたね。騎兵にかなり犠牲が出たという報告を受けた」 「戻らなかった者は、五十二名です」  この場合、戻ったものの息を引き取った者まで含む。ラギンは重傷を負っているところを発見され、搬送された。領王の供を言いつけた者で生き延びたのは、ひとりだけだ。  ――まるで、鶏を狙っていることに気づかれたような。  と、その兵は譫言の合間に告げた。彼も重傷を負い、高熱を発していた。  ――実にひ弱そうな魔物でした。動かないし、身を守る手段もなさそうだった。ラギン殿が、今なら討てる、と槍を掲げられたのを合図に、それまでどこにいたのか、猿が一気に姿をあらわして……。  ソグヤムが笛を吹き、馬首を返すあいだは持ちこたえた。その後、ラギンは落馬し、残ったふたりが彼を抱えてなんとか後方に戻ろうとした。ひとりは途中で討ち死にし、味方にラギンを託した彼は、そのときになって、領王の姿が見えないことに気づいたという。  無事だと知らせると、泣いていた。そして、また熱に浮かされたような妄想の中へと戻っていってしまった。  ――駄目だ、ラギン、駄目だ……ああ、猿が、猿があんなに!  絶叫する男に、医務官が薬湯を啜らせた。もういいですね、とクルヤーグに事後承諾を強要し、眠らせてやらないと治らない、と彼を追い立てた。 「その犠牲が無駄にならないよう、最善を尽くそう。かれらの死が意義を持つように」  ソグヤムは、それを知らない。知るはずがない。  窓から横ざまにさしこむ日の光が、日没が近いことを告げていた。そちらを向いたソグヤムの顔を、罪人のようだ、とクルヤーグは思った。既に罪を背負うことを決意し、みずからを棄てる心境になった者の表情だった。 「ソグヤム」  思わず、名を呼んでいた。  なにか取り返しのつかないことをしでかすのではないか、と不安になったのだ。  ソグヤムは、つねに自分自身を犠牲にしようとする。  まるで自分を罰しようとでもしているかのように。 「今夕、日没のときを告げたのを最後に、鶏は声を失う」  ゆっくりと瞬いて、ソグヤムはこちらを見た。まずウルバンを、そしてクルヤーグを。みつめて、うなずいた。 「そう書いた」  そのとき、雷鳴が轟いた。鶏の声ではない、とクルヤーグは思った。しかし、雷雲など見えなかったはずだ。 「今のは?」  ソグヤムは眉をひそめ、頭を左右にふった。彼の成したことではないのだ。では、いったいなんの怪異だ? 「竜だ!」  かすれた声で叫んだのは、ウルバンだった。おどろいて、クルヤーグは青年を見た。 「まことか」 「たぶん、いえ、きっと。竜の声には種類があって、東ノ村にあらわれた竜は雷声の竜だと聞きました。あのときと同じ声です」  ウルバンの説明を皆まで聞かず、ソグヤムは無言で立ち上がって部屋を出た。とっさに出遅れたクルヤーグは、あわてて後を追い、後ろ姿に声をかけた。 「どこへ行くのだ」 「見に行かなければ、竜を!」  馬鹿者、と言う暇もない。  走りはじめたソグヤムを追おうとしたが、竜が来るならやることがある、と気がついた。  東ノ村は、それで全滅したのだ。  ――くそっ、馬鹿が!  クルヤーグはついて来ていたウルバンの腕を掴んだ。 「お前は、あのかたをお守りせよ。わたしは竜の襲来に備えねばならない」 「はい、閣下……でもその、どうやって」 「見慣れぬものならなんでも自分で見なければ気が済まない奴だ。おそらく、身の危険など考えることなく、竜が見やすい場所を捜して走りまわるだろう。いざとなったら突き飛ばしても殴っても腹に一発あてて気絶させてもいい、あの馬鹿を安全な場所に留めるのだ」 「はい、閣下」 「領王の命に叛いても、そのお命をお救いすることの方が重要だ。多少荒っぽくやってもかまわん、あのかたをお守りせよ。わかったな」 「はい」 「では行け! マニン! 急げ、ダンナガンを呼べ……いや、わたしが行く、奴はどこにいる」  賄い食を供応されていたらしいマニンが、口のまわりを拭きながら廊下に飛び出してきたのを捕まえると、姿をあらわしていた家令の方を向いた。 「竜が来る。防備を固めよ。射手を配せ。館は任せた」 11  手配を終えるより、竜が上空に飛来する方が速かった。  魔物の相手には慣れている領都の住民も、さすがに伝説の生き物が相手とあっては勝手が違う。まずもって、その大きさが違う。  ――空をすべて覆ってしまいそうだ。  ただ大きいだけではない。寛い、とクルヤーグは思った。あるいは深いと言い換えてもいい。その存在は、人の想像を超えている。なにもかも、呑みこんでしまう。  威圧するというような種類のものではない。どこまでも、受け入れてしまうのだ。 「持ち場を離れるな!」  ダンナガンが一喝したが、どこまで届いているかわからない。兵たちの心は、天空を舞う竜に呑まれている。 「竜だけを相手にするわけにもいくまい。通常通り、射手の一部は外に備えさせるべきだ」 「そうですな。手配しましょう」  伝令に立てる兵の数が少ないのが難だ。クルヤーグは従卒の肩を掴むと、前へ押しやった。 「マニン、お前はここでダンナガン殿の命に従え。……そういうわけだ、使ってやってくれ」  雷鳴のような吠え声に、会話は中断を余儀なくされた。ダンナガンは言いかけていた長い挨拶をひっこめ、ただかすかに笑みを浮かべて一礼した。 「では遠慮なく」  竜が羽撃くと、記旗がいっせいに靡いた。ちぎれんばかりだ。音もたてているのだろうが、竜の吠える声にかき消され、なにも聞こえない。  がらがらと石の崩れる音が聞こえた。竜が領王館の屋根を鈎爪で掴んだのだ。そのまま持ち上げる気かとクルヤーグは眼を剥いたが、そうではなかった。  止まり木代わりにする気だろう。巨大な翼を折り畳み、鼻から盛大に湯気を吐き出して、竜はその長い首を塔の方へさし延べた。  クルヤーグは舌打ちした。ソグヤムがいるに違いない。  ――馬鹿が!  やはりウルバンでは止めきれなかったようだ。 「ダンナガン、あとは任せた」 「貴殿も苦労なさいますな」  暢気なことを言う、と老将を見やると、相手はしれっとした顔で言葉をつづけた。 「竜は、陛下を害しはしますまい」 「なぜわかる」 「竜は魔物ではありませんからな。手当り次第に暴虐をふるうことも、世の趨勢にかかわる人士を害することも、望みはせんでしょう」 「それならばいいが」  しかし、竜が無害だと信じて放っておくわけにもいかない。クルヤーグは館に取って返し、塔を登りはじめた。  きついな、と彼は思った。鍛錬は怠っていないが、どうしても老いは来る。身体は衰える。  もっと若ければ、と考えながら屋上までを一気に駆け上がった。もうもうたる水蒸気に覆われて、視界がきかない。 「駄目です。これ以上は危険すぎます」  まず聞こえたのは、ウルバンの声だった。言葉で止められるわけがない、とクルヤーグは思った。当て身でもなんでもと言ってあったのに、やはり実行できなかったようだ。  歩を進めると、ソグヤムの背が見えた。怪我などはしていないようだ。その向こうには、龍の頭が見える。水蒸気を通してもなおあかるい黄金の眸は、ソグヤムを凝視しているようだった。 「言いたいことを一方的に言われるだけで、しまいか。発音がまだ未熟なのだろうな」  若い兵士の制止を無視して、ソグヤムは肩越しにクルヤーグを見た。 「わたしが鶏のことを書きつけた〈本〉だ」  クルヤーグは眉根を寄せた。ソグヤムの部屋に置いたままになっているはずだ。 「表紙が黄色い〈本〉か」 「あれを、従卒に持たせてくれ。君は戻ってくるなよ、クルヤーグ」  いかにも当たり前のことのように、ソグヤムは言ってのける。逆だ、馬鹿、と殴り倒すのはどうだろう、とクルヤーグは考え、しかし実際には言葉での説得をこころみる。 「ソグヤム、自分の命を軽く見過ぎているぞ」 「またそういう話か。そのまま返す。わたしが死ねば、君がこの位を継ぐのだし、おのれの身の安全を確保する必要があることくらい、弁えてくれねば。それに、竜の言葉を聞き分けるのは、わたしにしかできぬのだ。君がここにいても、次の領王位を君の幼い息子に押しつける可能性を高める役にしか立たんよ」  言われてみればもっともな話だ。やはり馬鹿と吐き捨てて殴るのが賢明だったように思うが、残念ながら、今のクルヤーグは力の制御がきかない。うっかり本気で殴ったら、ソグヤムが壊れてしまうかもしれない。 「かしこまりました、陛下」  堅苦しく一礼して、彼は階段を駆け下りた。まったく、年上の従兄弟をこうも働かせるとは、年長者への敬意を知らんやつだ。  ソグヤムの部屋に駆けこむと、目当ての〈本〉はすぐに見つかった。黄色い装丁など滅多にあるものではなく、古い文字の読めないクルヤーグにも、簡単に探せる。  重たい〈本〉を抱え上げると、クルヤーグはすぐまた塔へと廊下を駆け戻った。従卒に持たせろと言われたのを忘れたわけではないが、彼にも多少の意地はある。だいたい、従卒はここにはいない。  それに、ウルバンではやはり、心もとなかった。  なんとか、無様でない程度の速度で階段を駆け上って屋上に出ると、壁際にへたりこんだソグヤムの姿が目に入った。  ――まったく!  舌打ちしたのは向こうも同じだったらしい。いきなり咎められた。 「だから。戻ってくるなと言っただろう」  朝から休みなく働いて、挙げ句、竜と語ろうとするような無謀な人間に言われる筋合いはない。  クルヤーグは顔色も変えず答えた。 「陛下に、人は打算だけでは生きられないものだということを、お教えしておくべきかと思いまして。ふたたびまかり越しました」 「厭味ったらしく尊称だの敬語だのを使わないでくれ、わかったから。さあ、それをこちらへ」  黄色い〈本〉を手にとると、ソグヤムはそれを竜に差し出し、耳慣れない言葉を叫んだ。 「イ・タハン・リガ! イ、エウナキアン・ハーグ、ハン・ヌ・トゥア! ヌミナル・デハン、イン・ドゥー・ヤ!」  すると竜は答えた。雷鳴が轟くようで、とても聞き取れない。  なにを意図した言葉なのか、そもそもこれは言葉と言い得るのか、ソグヤムは竜と会話をしているのか。  不審に思ったクルヤーグの眼差しは、ふと竜の眼に吸い寄せられた。  ――いかん。  変幻自在のかがやきをはなつ龍の眸から意識をもぎはなすのに、思いのほか時間がかかった。目の端に、なにか赤いものが見える。  ――火だ。火を吐く気だ。  必死に自身をとり戻したときには、竜は火炎を吐いた後だった。  ――ソグヤム!?  まだ、声が出ない。  ソグヤムは、無事だ。いや、どうだろうか。少なくとも燃え上がっているのは彼ではなく、〈本〉だ。光の尾を引き、炎の舌をするどく、長く伸ばしながら、〈本〉は落ちる。ソグヤムの足もとで、それは明るく燃え上がった。 「陛下!」  叫んで、ウルバンがソグヤムを突き飛ばした。炎が着衣の裾を舐めていたのだと、ようやくクルヤーグは気づいた。  自分もソグヤムの方へ駆け寄ろうとしたとき、突風が吹き荒れた。  まともに立っていることもできず、クルヤーグは両手で頭を覆った。吠え声が叩きつけられる。なにを告げているかは知らず、無力感を彼は味わった。  声すら武器になりそうなこの巨大な生き物に、弓矢や槍がどんな意味を持とうか。ましてや、人のひとりやふたり。  ――だが、おれはここにいる。  よろめくようにして、それでもクルヤーグは前に出た。ソグヤムの裾には、火は移っていない。それとも、今の突風で消えたのか。  見上げれば、竜はかれらの頭上を飛び越え、既に領都の向こう端へと達する勢いだった。 「陛下は」 「ご無事だよ、わたしは」  しれっと答えたソグヤムに、クルヤーグはついに怒りを爆発させた。 「なにが無事なものか! たわけたことを言っている暇があるなら、早く下に降りろ! そんな火傷をして」  ソグヤムの左手は真っ赤だ。竜の炎は〈本〉を狙っていたのだろうが、それを持っていたソグヤムの手は、当然のように焼かれてしまったらしい。 「これくらいでは死なんよ。かなり痛いが、問題ない。それより、竜が約束を守るのを見届けねばならない」  ――約束?  この短時間に、いったいあの化け物とどんな取り決めを交わしたというのか。 「またなにか突拍子もないことを考えているのではなかろうな」 「君はそういう言葉遣いをしているときの方が接しやすいな、クルヤーグ」  どうでもいいことを言ってから、ソグヤムは肝心の質問に答えることにしたらしい。顔をしかめながら立ち上がり、胸壁の向こうを眺望しながら言った。 「竜はここを囲んでいる魔物を一掃してくれるそうだ。半信半疑だったが、竜が持ちかける話を断れるほど、話術が巧みではなかったし、……ああ」  まさに、ああ、と嘆声をあげるしかなかった。  ソグヤムの視線を追った先に、クルヤーグは竜の姿を見た。赤くきらめく鱗が、炎を映してさらに赤く見える。開いた顎から、尽きることなく吐き出される炎は、野を灼灼と赤くかがやかせていた。  滑空して高度を下げ、炎を吐く。羽撃いて、高空から火球を吐いているのは、燃え残しを始末しているのか。  瞬く間に、竜は領都の周辺を炎の渦で包みこんだ。  炎は夜を徹して燃えつづけ、魔物の群れを焼き尽くした。 12