2005.01.31−10:20 約束 ―真世の王・番外編― 1  浅い眠りから揺り起こされると、部屋はまだ闇に沈んでいた。  硝子の火屋の中でたよりなく揺れる光が、彼の上に身をかがめた従卒の影を遠くの壁まで長く伸ばしている。 「太子がお呼びです」 「わかった」  理由は伝えられなかったが、察するのは容易だ。手早く身支度をととのえ、差し出された剣を腰に佩いた。黒鞘の剣を、いつもより重く感じる。  疲れているのだ、と思った。  自分もマントを羽織ろうとした従卒に、寝ていろ、と声をかける。自分がこれだけ疲れているのだ、小柄な体躯には疲労が堆積しているだろう。主人がいないあいだに休息をとらせた方がいい。 「お言葉ですが――」 「お言葉なのだから従っておけ。どうせ、じきにもっと忙しくなる。そのときに倒れられては困るからな」  名を呼んでやろうとして、口ごもる。前任の兵士が魔物に頭を吹き飛ばされてから、五日しか経っていない。  憶えても、すぐ忘れねばならぬ名なのかもしれなかった。  そう思うと問い返す気も失せる。よくないことだと考えながら、曖昧に手をふって議論を終わらせ、部屋を出た。  ――思ったより、早かった。  覚悟はしていたつもりだが、現実に突きつけられると、早い、とどうしても思ってしまう。心の準備がたりなかった証拠だ、とクルヤーグは苦い想いを噛み殺しながら身支度をととのえた。  来るべきものが来た。それだけだ。  領王の館は、思いのほか静かだった。衛兵はクルヤーグの顔を見て一礼したのみだ。誰何もしないのは、彼がここに頻繁に出入りしているからだが、いつもより数が少ないのは、奥に詰めているせいか。  彼はひとり、暗い廊下を歩きはじめた。途中、家令とすれ違う。 「ご苦労だな」  声をかけると、家令は静かに頭を下げた。 「恐れ入ります」 「殿下は?」 「お部屋においでのはずです」 「ありがとう」 「お悔やみ申し上げます」  クルヤーグは無言でうなずき、足を速めた。  いわれるまで忘れていたが、彼も遺族ということになるのだ。いかんな、とまた心の中で苦笑する。覚悟が聞いて呆れる。  親族だからこそ、深夜の来訪も不自然ではない。案内もなく歩きまわれるのも、幼い頃から勝手知ったる館の内だからだ。  目当ての扉の前に至ると、彼は声をかけた。 「わたしだ。入るぞ」  返事はない。かまわず、クルヤーグは扉を開け、室内に歩み入った。  中は暗かった。夜だからそれは当然だが、妙なのは灯火がついていないことだ。自分を呼んだくらいだから、寝ているはずはないだろうと声をはりあげる。 「殿下! クルヤーグです」 「ああ、従兄弟殿。早かったな」  くぐもった声は、足下から聞こえてきた。クルヤーグはぎょっとして半歩下がり、急いで扉を閉めた。 「なにをやってるんだ」 「いや、なつかしくなってね、なんとなく」  ごとんと音がして、壁が動いた。扉からそう遠くない、床近くの壁石がはずれ、黄色い光がさした。灯火を手にした青年が這い出してきたのは、それからだ。 「なんとなく」  クルヤーグは復唱すると、相手がさしだした燭台を受け取り、もう一方の手であいた手をって、引き起こした。 「いけないかね」  わずかに眉を上げて問い返したのが、そのへんの悪戯小僧であれば、無論なんの問題もない。 「東方月白領王の嫡子、ソグヤム太子がなされることとしては、少々難があるかと存じますな」  膝についた埃を払っていたソグヤムは、ゆっくり身を起こした。灯火の黄色っぽい光を受けて、いつもは明るい空色の瞳が、見慣れぬ色調に見える。 「ふむ。しかしだな、死者を悼むと、どうしても過去に想いを馳せることになる。それで、なつかしんでいたわけだよ」 「なるほど」 「予定では、従兄弟殿が来るより早く戻って来ているはずだったのだ」  思いのほか手間取った、といいながらソグヤムは今度は肩のあたりを払った。見れば頭のてっぺんにも埃がついている。クルヤーグは顔をしかめて手をのばした。頭を払われても、ソグヤムは気にもとめない。 「ふむ。わたしはあまり縦も横も育ったつもりはなかったのだが、やはり子どものころのようにはいかないな」 「当たり前です」  この馬鹿が、といいたいのを呑みこんだ。いちいち口にしていたら、一日中馬鹿馬鹿とくり返すことになる。 「当たり前か」  うなずきながら、しかし承服しがたいというように首をふり、ソグヤムはクルヤーグの手から燭台を取り戻すと、卓上に置かれたもっと大きな燭台に火を移した。 「こういうときだから、大した儀式はおこなわなくてかまわないだろう」 「こういうときだからこそ、領民の意識をまとめ上げるため、という考えかたもあります」  起き上がったときに感じた、剣の重み。疲労は雪のように降り積もり、静かに人々を押し潰す。なにか、撥ね除けるための力が必要だった。 「ふむ。なかなか容赦がないな、従兄弟殿は」 「ありがとうございます」 「そうそう、褒めているんだ」  褒め言葉と貶し言葉の区別がつかない者が多くて困る、とうそぶくソグヤムは、べつに相槌を必要としているわけではないのだろう。視線も彼の方に向いてはいない。着衣の隠しに手を入れて、暗い窓の外を眺めている。  ――いつもより。 「ちょっと、饒舌かな」  心の内を読んだように、言われた。 「まだ口数が増える余地があるとは。不覚でした」 「それは嬉しいね。わたしは、つねに意表をつく存在でありたいと思っているのだ」 「これ以上は困ります」 「君を困らせるのはわりと楽しいよ。知っていると思うが」  布の襞のあいだから引き抜いた手に、古びた手紙の束が握られている。ひとめで、クルヤーグはその正体に気づき、従兄弟の目論見を察した。 「駄目です」 「いや、こんなものを残しておいてはまずい」 「いつ必要になるかわかりません」 「……だから、君が来る前に終わらせておこうと思ったんだが」  ソグヤムは紙束とクルヤーグの顔を見比べると、ため息をついてそれを机上に投げだした。 「保管場所を,ご存知だったのですか」 「無論だ。母上の考えそうな場所なら見当がつく」 「お父上は――」 「ご存知ないさ。あるいは……そうだな」  ソグヤムは、クルヤーグの眼を覗きこんだ。  なにかを確かめようとしているような、そんな表情をして。それから、ふとくちもとを歪め、笑みを浮かべた。 「知っていて、気づかぬふりをなさっていたかもしれん。だが、今となっては真実などわからぬよ」 「いつ」 「従兄弟殿を呼びにやる直前だ。ちょっと使いを出すのが早かったかな」 「駄目です」  また紙束を取り上げたソグヤムの手を、クルヤーグは素早く掴んだ。 「反応がよすぎるよ、クルヤーグ」 「わたしが預かりましょう」  ソグヤムは目をまるくした。 「それは駄目だ。それくらいなら、今すぐ隠し場所に戻してくる」  有無を言わさずもぎ取ろうとしたが、ソグヤムはそれを許さなかった。押さえられたままの手を燭台に近づけようとするので、クルヤーグはあわてて力をこめ直した。 「子どものようなことはおやめください。駄々をこねるのも、隠し通路を這い回るのも、終わりです。父上が亡くなられたのですよ。もう、あなたは太子ではないのです、領王陛下」  重々しく相手を呼ぶと、ソグヤムは見るからに意気消沈し、椅子を引き寄せて座りこんだ。しかし、手紙の束は握ったままだ。 「つねづね、おかしいと思っていたんだ」 「なにがです」 「位が高くなればなるほど、やりたいことができなくなる。おかしくはないか」 「責任とは、そういうものです」 「いらないのだが」 「ほしいからといって、手に入るものではありませんから」  だから、いらないといって抛てるものでもない。それくらい、ソグヤムも理解しているはずだ。 「これは燃やす」 「いけません」 「燃やす。中身は憶えてしまった。現物があってもなくても関係ない」 「それでは意味がありません」 「意味などあっては困る代物だ。だから燃やす」 「陛下」 「わたしに領王を名告らせたいか? なら、燃やせ」  ソグヤムは紙束を握った手の力を抜いた。彼の膝に、床に、古びた紙が次々と落ちて散らかった。 「それとこれとは話が違う」 「違わんよ。これの中身が必要になると思うのかね? であれば、その場面を想到してみたまえ。わかるだろう、わたしが王位を要求するのでもなければ、そんなものは必要ない。そして領王位でなく、王都の玉座を欲するのなら、領王ではいられんよ」  簡単なことだろう、とソグヤムは言ってのけた。まだ返す言葉を思いつけないクルヤーグに、彼はさらに告げた。 「我が父とは血のつながりがなく、王都におわします王様の子であると証明する書状だ。これを保管してどうする。いらぬ災いの種を蒔くだけだ」 「しかし――」 「わたしが領王位を襲わぬとなれば、ここで陛下と呼ばれるのは君だということになるぞ?」  クルヤーグは憮然として答えた。 「誰が認めるか、そんなこと」 「では燃やせ。命令だ」  投げやりに言うとソグヤムは立ち上がり、窓辺に近寄った。外はまだ暗い。城壁から、たまに白い炎があがる。魔物が銀の護りにふれたのだろう。遠く地平線のあたりに眼をやれば、夜明けまでそう時間は残されていないことがわかる。  長い夜が明け、長い昼が始まるのだ。  ため息をついて、散らかった紙を拾い集めた。そう多くはない。しかし、貴重なものだった。 「いいのか」 「なにが。領王位を継ぐことなら、まったくよくないが、よいの悪いので選べる話でもあるまい」  そのかわり、面倒なことはすべて御免被る、やりたいことをやりたいようにやるぞ、とソグヤムは静かに宣言した。この男のことだから本気だろうが、ではなにを始める気かと考えても、そこまではわからない。  どうせ意表をついてくるに決まっている。それも、楽しそうに。  ソグヤムが、ふり返った。 「どうした。まだ燃やさないのか」 「ほんとうに、燃やすのか。これ以外、なにもないのだろう、その――」  実の父とのつながりを示すものは、と口にしかけたが、言葉にならなかった。 「くどい。燃やせ」  きつい口調で命じて、ソグヤムは眼を閉じた。頬の線が、少しするどくなったような気がする。  彼も、疲れているのだ。自分のように外に出て戦いはしなくとも。彼の戦場はここにあり、そして今、戦の局面は変わった。ソグヤムとて心の準備はしていただろうし、病に倒れた老父に代わり、実務のほとんどは既にこなしていたのだが、それでも。 「早くしろ」 「かしこまりました、陛下」  クルヤーグは暖炉に向かうと、その前に跪いた。紙束すべてが確実に燃えるよう、ゆっくりと火にくべる。一枚ずつ。  音もなく、紙は燃えた。この一枚を手にするために命を賭ける者もいるだろうに、とクルヤーグは考えた。状況によっては、それだけの価値がある紙だ。貴人の筆跡が火に呑まれ、黒く炭化して砕ける。  ――そなたを遠ざけねばならなかったことを、許してくれ。  ――わかってくれとはたのまぬ。ただ許してくれ。  彼も昔、これを読んだ。  クルヤーグはソグヤムの従兄弟にあたる。先代の、いや今となっては先々代のと呼ぶべきか、領王には男子が生まれず、女子も短命に終わった。その短命だった娘が命と引き換えにこの世に生み出したのが、クルヤーグだ。  彼が領王の後継となるのが当然、と言われたこともあった。だが、それも今の領王が王都から来るまでの、ごく短いあいだだった。  あれはたしか、クルヤーグが十歳くらいのころだったか、ソグヤムが父と呼ぶ人物が領王家の養子に来たのは。先代の王の息子、つまり王城に君臨する現王の弟である。身重の妻を連れていた。ほどなくしてソグヤムが生まれ、後継問題は完全に決着を見た。  というのは大人の事情で、クルヤーグは当時それらの事情をよくわかってはいなかった。ただ、失われた家族の代わりに叔父と叔母、そして弟のような従兄弟が出現したのを嬉しく、こそばゆく思っただけだった。  ――遠くにあっても、我が心はつねにそなたのもとにある。  ――我が子をともない、王都へ来てほしい。  叔父はもの静かな人だった。叔母は、いつも遠くを見ていた。今にして思えば、王都を懐かしんでいたのだろう。あるいは、王都にある人物を。  これらの手紙が届くのを、ひたすらに待っていたのかもしれない。  ――今は駄目だ。諸侯の監視が厳しい。会いに来てくれても、言葉をかわすこともできないだろう。  ――我が弟を置いて、そなたと我が子だけが王都へ来ることもかなうまい。不自然だ。  ソグヤムの父親が、養子に入った領王でも、中央の王でも、クルヤーグにとって、さして違いはない。そもそも、従兄弟というのも名ばかりで、よほど丹念に辿らねば、血のつながりなどないに等しいのだから。  関係ないと思う自分が、これを保管しろと言ってしまう。まったく、地位と権力とやらの呪縛は大きいものだ、とクルヤーグは考えた。考えながらまた一枚、火にくべた。  ――ラグソルのことなど気にするな。あれを愛してなどいない。我が心は、つねにそなたとその子のもとにある。  ――疑うなら古い言葉で語ってもいい。物語師に伝言を持たせよう。我が弟とその家族の面前で語るようにと申し聞かせれば、疑う者もいるまい。  ――そなたの幸福を願い、平穏を祈る。なによりも。  ――王都に来てはいけない。そなたを護りきることができぬのだ、そなたに死なれるくらいなら、遠くで無事であってほしい。  ――そなたは生きよ。生き延びよ。我が子も生きて――。  燃え崩れ、落ちていく文字を追うほど、やるせなさが募る。位が高くなるほど不自由になるのであれば、この文字を綴った人物に、どれほどの自由があったというのだろう。 「ところで相談なのだが」  気配で、ソグヤムが背後に立ったことに気づいた。そら来た、とクルヤーグは思った。なにか、とんでもないことを言いだすに違いない。 「なんでしょう」 「鶏の姿を見たい」  クルヤーグは眼をみはった。ふり向いてソグヤムを見上げ、注意がそれたせいで指を火であぶってしまい、舌打ちしながら手を引いた。あらためて、手放した紙がすべて火に呑まれたのを確認すると、彼は立ち上がり、無表情に確認した。 「なんと、おっしゃいました」  表情がないのは、怒っていいのか、呆れていいのか、嘆くべきなのか、それともいっそ笑いとばすべきなのか、見当もつかなかったからだ。 「夜明け前がいいだろうと思うのだが、今朝はもう間に合わない。明日でどうだろう? ある程度は警護の兵がいるだろうが、要は姿さえ見えればよいのでな。大々的に兵を出す必要はないと思うのだ。君の意見を聞きたい、何人くらい――」  夜明けを告げる狂った声が荒野に響き渡り、ソグヤムの声をかき消した。 2  自分はよくやった、とクルヤーグは思った。  少数の護衛だけ引き連れて行く気のソグヤムを説き伏せるのは、彼にしかできない仕事だった。  きちんと陣をととのえて押し出さねば、鶏はおろか手前に控える他の魔物どもに食い殺されるだけだと説明し、そもそも陣をととのえるために最低でもどれくらいの兵士が必要か、またそれだけの規模で出兵すればどれくらいの犠牲が見込まれるか、そこまでして実行する価値がある計画なのか、確認し、再考に再考をかさね、ようやく妥協点を見いだしたのだ。  あとはもう、なるようにしかならない。  夜明け前の暗さに包まれた領都の内壁に、門前に、広場に。ものものしく武装したち兵士たちが並んでいる。  靄が、銀粉をまぶした武具にしっとりと水気を与えていた。あまり濃くなると流れ落ちるな、と考えながら、クルヤーグは声をあげた。 「ラギン」  手綱を従卒に預け、壁際に寄る。少し向こうでは、彼が仕える領王がなにか喋っていた。兜をかぶりたくないと文句を言っているようだ。視界が遮られるとかいう馬鹿馬鹿しい理屈に、思いきり頭をはたいてやりたくなったが、それは後だ。 「お前にたのみたいことがある」 「なんなりと」  ラギンはまだ若く、剽悍な剣士だ。馬の扱いもたくみだし、親衛兵の全員がそうであるように、〈王の剣士〉だ。つまり、戦闘力が高い。 「あとふたり選んで、絶対に陛下のお側を離れないように」 「わかりました。しかし……隊長殿は?」 「おれは全体の指揮がある。領王のことばかり考えてもいられまい。お前と仲間は、領王のことだけ考えろ。よいな」 「はい」  呼び名は親衛兵でも、かれらは無力な主君を護って戦った経験がほとんどない。  先頃崩じられたばかりの前領王は、戦場に出ることはなかった。ソグヤムもそうだ。  王都でも、このんで訓練に参加する王太子ラグソルは、みずからが〈王の剣士〉の一員となっても不思議はないほどの剣腕の持ち主だ。おそらく、頭でわかっていても、とっさに身体が動きはしないだろう。とくに、あの突拍子のない主君のお守りをせねばならないとあっては――クルヤーグはそれを案じていた。 「あいつが馬鹿なことをしそうになったら、殴ってでも止めるんだぞ」  ラギンは笑って、わかりました、といった。冗談だと思ったらしい。 「出陣前に笑えるのは、ゆとりがあって結構なことだが、これは冗談などではない。本気で言っているのだぞ、おれは」 「はい。しかし、あんなに頭の良いかたが」 「頭が良いから始末におえんのだ。ああ駄目だ、やはり行かないと。よいか、とにかく、たのんだぞ。おれになったつもりで、あいつを叱り飛ばせ」 「無理ですよ、隊長殿」  クルヤーグは眼に力をこめた。 「やれ!」 「はっ。努力いたします!」  よし、と言い置いてクルヤーグは大股に歩を進めると、まだ文句をつけていたソグヤムの頭をはたいた。 「……なにをするんだ従兄弟殿」 「もったいなくも、領王陛下に『兜をかぶらないとどうなるか』の実演をさせていただきました」 「それはわかるが」  顔をしかめてつぶやきながら、ソグヤムはようやく兜を受け取り、恨みがましい目つきでクルヤーグを見た。 「わかれば結構」 「今、本気で殴っただろう」 「おれが本気で殴ったら、お前など首の骨が折れている」 「そこまで本気を出す必要はないのだ」 「そうだ、だから出していない。喜べ、まだ生きているぞ、ソグヤム」 「いや、なんだか妙に哀しくなってきた」  ちょっと持っていてくれ、とクルヤーグに兜を押し付けると、ソグヤムは黒い馬に跨がった。これも、クルヤーグが慎重に選んだ馬だ。  従兄弟は乗馬ができないわけではない。しかし、軍馬は気が荒い。ふだん乗りつけていないソグヤムに、戦場で制御できるとは思えない。といって、荷駄馬をあてがうわけにもいかない。足が遅いのは致命的だし、なにより戦を前にしてはすくんでしまうに決まっている。  悩んだ挙げ句、厩舎長とも相談の上、東涯郡の羊飼いたちから召し上げた馬を選んだ。東涯郡では、こんな風になる以前から、魔物が出没していたという。当然、羊飼いたちが乗る馬も、魔物に慣れている。その上、小柄な割に足は速い。  最良の選択をしたつもりだった。部隊の人数も、顔ぶれも、すべて考え尽くした。  ――勝つ必要はない。  クルヤーグは自分に言い聞かせた。負けなければいいだけだ。それだって、ずいぶん困難な仕事ではあるのだが。  乗馬した従兄弟に兜を押し付けると、相手は笑って受け取った。 「君もずいぶん欲がないな」 「なんのことだ」 「ずっと考えていたのだが、ふつうなら、わたしは恨まれる立場だろう。わたしがここに来なければ、君が領王位を継いでいたのだ。いい機会だから、わたしを亡き者にしようというくらいのことを、考えないのかね」  くだらん、とクルヤーグは一蹴した。 「そんなことを考えるとしたら、それはおれの偽物だな」 「まあ、たしかにそうだな」  従卒が、クルヤーグの馬を引いてきた。 「ありがとう――」  まだ名前が憶えられない。憶えたくないのかもしれない、と考えていると、横から声が聞こえた。 「マニン」  ソグヤムだった。きょとんとしている従卒を見下ろし、領王は笑った。 「いい名だな。我が従兄弟殿が面倒をかけてすまないが、よく世話をしてやってくれ」 「は……はい」  名を読んだのだ、とクルヤーグは気づいた。ソグヤムはたまに、こういう芸当を見せる。名告られもしないうちから、相手の名を言い当ててしまうのだ。ここらを跳梁跋扈している魔物どのも正式な名前も、ソグヤムはすべて知っているらしい。  しかし、慣れているクルヤーグはともかく、ふつうの者には気味が悪く思えるだろう。 「行け、マニン。ここはもういい。自分の支度をしろ」  クルヤーグが声をかけると、従卒は一礼して駆け去った。 「彼も出撃するのか」 「当然だ」 「まだ若いのにな」  ため息をついたソグヤムの手から兜をひったくると、クルヤーグは乱暴にそれをかぶらせた。 「痛い、こら、さっき殴られたところが瘤になったぞ」 「我慢しろ。痛いのは生きている証拠だ」 「やれやれ……」 「では陛下、そろそろ刻限です。兵たちを出します」  兜を直していたソグヤムは、表情を変えずにうなずいた。 「わかった。戦のことは、君にまかせたよ」  手綱を引いて、クルヤーグは逸る馬を押さえた。戦だと、わかっているのだ。この獣は戦が好きなのだ。  ――たぶん、おれもそうだ。  あれほど反対したのに、いざ出陣となると気分が高揚する。どれほど死に近い場所かわかっていても、戦場へ出たかった。城に閉じこもったまま緩慢な死を待つよりも、剣をふるって野に果てる方が、気分はずっと楽だ。 「陛下」 「なんだね」 「かならず、ご無事で。あなたは必要なかたです」  クルヤーグ程度の将なら、いくらでもすげ替えが効く。しかし、人を見ただけで名前を言い当て、魔物の名を読み、未来を書き換えてしまおうなどと考えられる者は、ソグヤムを措いてほかにいない。  クルヤーグの目配せで、老将ダンナガンが騎馬隊を整列させはじめた。当然、歩兵隊の方へも指示が行っているだろう。  ソグヤムと話せるのは、今のうちだ。 「人を押しのけても生き延びるご覚悟で、門をくぐってください」  ソグヤムは苦笑した。ラギン同様、クルヤーグが冗談を言っているものととったらしい。 「それはまずいだろう、領王が領民を押しのけて助かっては」 「いいえ、よくお考えを。この策戦は、そもそも陛下があの魔物の姿を見るためのもの。首尾よく姿をご覧になられたとて、ご無事にお戻りあそばさねば意味はありません。それでは、犠牲が無駄になります。おわかりか」  なにか言いかけるように口を開き、そしてそのまま、大きなため息をついて。ソグヤムは、静かにうなずいた。 「そうだな。なんにせよ、わたしがあれをこの眼で見ないことには」 「そして、無事にお帰りにならないことには、この出兵は無意味になります。かならずお帰りになると、誰の命よりもご自分のお命を優先なさると、お誓いください」  くどいなぁ、とつぶやいて、ソグヤムは頭を掻こうとした。当然、兜に阻まれて失敗する。 「ああもう、邪魔だな。しかし、そんなに信用がないかね、わたしは」 「ありませんね」 「わかった、わかった。努力するよ」 「誓ってください」 「ほんとうに、くどいぞ。何に誓えば満足するんだね」  考えもせず、クルヤーグは口走った。 「亡き母上のご名誉に」  一瞬、ソグヤムは唖然とした。そして、破顔した。なにか、いいことを思いついたとでもいうように。 「……では、君はあれだ、奥方に送った首飾りに懸けて誓うんだぞ、かならず生きて戻ると」 「なぜおれが」 「わたしだけ誓わされるのは不公平だろう。君も誓え、そうしたらわたしも誓う」  一気に言ってから、ふとソグヤムの表情がやわらいだ。 「思いだすな、昔を……」 「誓いなら、あのとき済ませました」  膝を締め、クルヤーグは馬を抑えた。整列する部隊の先頭に立つ気でいる。わかった、と彼は足に力をこめた。わかったから、すぐに行かせてやるから。 「けっして裏切らない、とね」 「わたしも誓ったのだっけ?」 「お忘れですか、陛下」  いや、と否定しかけて、しかしソグヤムは途中で言葉を切った。遠いものを思い返すように眼差しが遠くなる。 「陛下はともかく、こちらは今さら念を押されるまでもありません。ご命令いただければ、生きて戻ります」  ソグヤムはゆっくり、まばたいた。いちどだけ。  大きく息を吐くと、彼の貌にたゆたっていた曇りのようなものが、すっと消えた。 「そうだったな」  誓うから。  頭のなかで、まだずいぶんと若かった自分の声が言っていた。必死の口調だった。  手は、血のつながらない従兄弟の肩を掴んでいた。  ――誓うから。おれは、お前を裏切らないと、約束するから。  あのときも、ソグヤムは俯いた。そして、なにかを吹っ切るように顔を上げ、クルヤーグを見たのだった。  ――聞こえてるよ、従兄弟殿。何度もくり返さなくてもいい。君を信じるよ、ことによると自分自身よりもね。  ほんとうにか、とクルヤーグは念を押した。若かったと思う。そしてソグヤムは、その彼よりもっと若かったのだ。ほんの少年だった。 「では命じておこうか。わたしより先に死んではならん」  ひょっとすると、今もあのときと同じ表情をしているのかもしれない。だからソグヤムは、ことさらに冗談めかして言うのだ。たぶん、彼は本気だろうに。 「ずいぶん期間が長そうですが、気のせいですか」 「一回の命令で手間が省けてよいではないか。わたしも誓っておこう、母上の名誉にかけて。君を長生きさせるためにも、せいぜい生き延びる努力はする、とね」 「そのへんで、手をうちましょう」  では、と一礼すると、クルヤーグはラギンに目配せをして、自分は騎馬隊の前へ出た。  出陣だ。  ダンナガンが望楼に合図を送ると、幟が上がった。門が、ゆっくりと開きはじめた。 3  クルヤーグが王都へ行ったのは、十六のときだった。  別段、王都へ行きたかったわけではない。自分は領都にいない方がよかろうと思っただけだ。  成人する日が近づくにつれ、領王位はやはり領王の御血筋にあたるクルヤーグ様が……と匂わせる輩が、足しげく彼のもとを訪れるようになったからだ。  これはよくない、と彼は思った。  ソグヤムはまだほんの子どもだったし、譜代の家臣はクルヤーグに同情的な者が多かったから、その気になれば、容易に転覆できそうだった。容易だからこそ、あやうい、と感じた。  彼自身にその気がなくとも実現しそうなほどの、あやうさだ。  理屈ではなく直感で、ここにいてはまずいと思い、それならばと王都へ行くことにした。領都を出るには理由が必要で、適当な理由を〈王の剣士〉目指して修行したいからということ以外に考えつかず、となれば王都へ行くのが当然だ。  だから、王都へ行くことになった。それだけだ。  血のつながらない伯父である領王に希望を伝えると、かなり長い沈黙のあと、そうか、とだけ言われた。  領王は穏やかな性質の人物で、王都での政争を嫌ってここに養子に来たと噂されていた。あるいは追い落とされたか、なんにせよ権力から遠ざかるべくして遠ざかったのだと。  ご許可を、とクルヤーグが跪いて願うと、領王は戸惑ったように彼を見下ろし、それから進み出てクルヤーグの肩にふれ、立ち上がらせた。間近で並んでみると、背丈はクルヤーグの方がわずかに高かった。 「そなたは〈王の剣士〉になりたいのだな」 「はい」 「では、紹介状を書こう」  剣腕にはそれなりの自信があったが、〈王の剣士〉として通用すると勘違いするほど思い上がってもいなかった。だから、領王が言った紹介状とは、訓練をつけてくれる教師へのものかと思っていた。 「ありがとうございます」 「礼には及ばぬ。そなたのことは、ソグヤムの兄とも思っている。わたしにできるだけのことは、させてほしい」  領王妃が居合わせたかどうか、クルヤーグは憶えていない。ソグヤムはその場にいて、クルヤーグ、と彼を呼んだ。 「遠くに行ってしまうの?」  不安げに尋ねられ、しかしクルヤーグは安心させるための偽りを語りはしなかった。 「そうです」 「もう、戻ってこないの?」 「またお会いできますよ、殿下」 「ほんとうに」 「ほんとうです」  ソグヤムは両手をさしのべ、クルヤーグは幼い太子の前に跪いた。小さな手が彼の顔を挟み、額が額に押し当てられた。 「約束だよ」 「はい、かならず」  言い切ると、ソグヤムは微笑んだ。笑顔は領王妃に似て、陽射しに溶ける淡雪のように儚げだった。 「約束だよ」  領王が書いた紹介状は、兄である王に宛てたものだった。  王の威光をもってしても、クルヤーグが〈王の剣士〉にとりたてられるまでに、半年ほどが必要だった。訓練も怠りなくさらに腕を上げ、晴れて〈王の剣士〉となったときには、血筋のおかげだという陰口を無視できる程度に、彼は自信をつけていた。  ただ、ほんとうに強くなったとも思えなかった。なるほど、剣を揮っての立ち回りは、うまくできる。だが、御前試合など「ここ一番」での勝負運に欠けるところがあった。  仲間にも、お前は運がないな、とよく言われた。練習場では最強だ、と冗談めかして評されたこともある。  クルヤーグには、自分がなぜ勝てないのか、わからなかった。わからないなりに、今のままではこれ以上強くなれないだろう、とは感じる。だが、ではどうすればよいのかまでは、わからない。  ひたすら訓練をつづける以外、彼にはなにも思い浮かばなかった。  たまに、ソグヤムが手紙をくれた。父上が、なにか不足はないかと訊いておられます、というのがかならず結びのどこかにあった。  ほかは、他愛のない日常についての文章だ。家令がうるさくて息が詰まるとか、母上になにか差し上げたいのだけどなにがいいだろうとか、乗馬の訓練を始めたが馬にはどうして人間の言葉が通じないのだろうとか、〈物語師〉が来たけど去年の人物と違って下手だったとか、〈本〉が欲しいのでなにかあったら送ってくださいとか。  いちど、剣士長に訊かれたことがある。 「お主はその従兄弟を恨んだことはないのか」 「ありません」  即答した。迷いなどなかった。 「奇特なことだ」 「そうでしょうか」 「そうだとも。こと権力が絡むと、どこもひどい有様だぞ。家族の絆など、意味をなさん」  苦い経験でもあるのか、剣士長は不愉快そうに顔をしかめて見せた。 「家族、と言うより――」 「ん? なんだ」 「いえ、つまらないことです」 「いいから言ってみろ。途中でやめるのはよくないぞ。おれが気になる。とても気になる。気になり過ぎて、お前を一対一の稽古で叩きのめしたくなる」 「稽古をつけていただけるのは嬉しいです」  無難に答えると、剣士長は鼻で笑った。 「では稽古をつけてやるからちゃんと話せ」  いきなり剣を抜いた剣士長に斬りかかられ、クルヤーグはすんでのところで体を躱した。 「真剣ですか!」 「決まっているだろう。ここは練習場か? 警備のお役目をつとめているときに、木剣だの刃を潰した剣だの持ち歩くわけにはいかんだろう。それに、この程度を躱せぬ者がおれの配下にいるはずがない。だから問題ない。さあ話せ」  剣士長は実に楽しそうに詰め寄った。  たしか、深夜勤のときだ。玉座の間の警護を受け持っていたような気がする。中には誰もいないし、外も無人だった。要は、おそろしく暇だったのだ。  しかたなく、クルヤーグは話した。 「わたしを動かすのは家族の絆ではない、と思ったのです」 「家族ではない? では、なんだ」 「たぶん、国を想う心ではないでしょうか」  東方月白領は、彼の故郷だ。住む所にも食べるものにも困らなかったとはいえ、親もなく、天涯孤独と呼ばれてもしかたのないクルヤーグにとって、たいせつなのは、故郷だった。  たいせつに想うからこそ、国を出たのだ。自分の存在が、国を二分する争いを発生させかねないと、予見したからこそ。  領王一家は家族であって、家族ではなかった。むしろ家族であれば、もっと憎んだり恨んだりできそうな気がした。かれらは、あまりに遠かった――幼いソグヤムでさえ、遠く感じられた。 「それもまた、別の意味で難儀な話だな」 「そうでしょうか」 「お主が勝てぬのは、そのせいだ」 「はい」 「はい、ではなかろう、はい、では!」  苛立たしげに叫ぶとまた、するどく斬りつける。クルヤーグもまた避けた。次は剣を抜いて応戦すべきかと考えながら、とりあえず体さばきだけで躱した。  剣士長は柔軟だ、と彼は思った。一瞬で気配が変わる。世間話をしているときは、とことん暢気だ。殺気のかけらもない。なのに、瞬きひとつするあいだに斬撃をくり出してくる。 「わかっていて答えたのではあるまい、どうだ」 「はい……」 「特別に教えてやるから、まあ聞いておけ。聞かせたからといって解決するものでもなかろうが、黙っているとおれの寝覚めが悪い。まずひとつ、お主はもっと強くなれる。ふたつ、お主が試合で負けるのは、自分が勝つことを正しいと信じきれていないからだ。そりゃ負ける。当たり前だ。みっつ、その理由はお主が自分自身を重んじていなことにある。すなわち、お主は誰のことも大事に思っていない」  一気に告げて、剣士長は剣尖をクルヤーグの鼻先に突きつけた。そして、わかったか、と問うた。 「いえ」 「よく考えてみるんだな。国などという漠然としたもののためには、人は戦えんのだ。人が戦うのは人のためだ。自分のためでもいいし、自分より大切な誰かのためでもいい。お主は未だ人でない。だから、十分に戦えんのだ」  クルヤーグは考えた。なんとなく、問題の核心を言い当てられたという気はした。  自分を大切に思ったことなど、ないのだ。 「しかし、では……では、わたしはどうすればよいのでしょう」 「難儀だと言っただろう。頭でわかったからといって、では今日から自分が大事です、とはなるまい」 「はい」  剣士長はにやりと笑った。そして、困った奴だな、と言った。 「おれはな、物事は、なるべくしてなるようになると思っている」 「はい」 「今日の明日のというわけにはいくまい。だがな、お主がつねにそれを心にかけ、自分自身を変えようと思い定めていれば、きっと、変われる」  とりあえず、そうだなぁ、と剣士長は剣を鞘に収めながら肩をすくめた。よし、こうしよう。 「なんでしょう」 「思い惑う部下を導くのは剣士長の務めだ。そうは思わんか」 「ありがとうございます」 「いいから同意しろ」 「はい」 「では、人生の楽しみかたを覚えに行こうか」  どうせ、こんなところを守っていても意味はない、といきなり持ち場を離れたのだから、クルヤーグはおどろいた。かなりの衝撃だった。 「しかし、剣士長」 「やめろやめろ、これから遊びに行くというのに、そんな呼びかたはやめろ。名前で呼べ」 「しかし、剣……フィアラス殿」 「案ずるな。責任は、おれが取る」 「そういう問題では」 「そういう問題なのだということを教えてやろう。いいか、クルヤーグ。人生は、楽しむべきものなのだ。ただし、自分自身で責任が負える範囲でな」  剣士長は笑った。クルヤーグは結局、逆らうこともできず彼に城から連れ出され、酒屋で酔い潰された。フィアラスはべらぼうに酒が強く、最後まで酔った気配を見せなかった。  酔いにまぎれて、洗いざらい話すことになった。といっても、話せることはそう多くない。前領王の妹の子であるとかは剣士長もあらかじめ知っていたらしく、ただ、クルヤーグの母親が産褥で死んだことは初耳だったようだった。なるほどなぁ、と剣士長は眼を伏せた。  黙っていると、賢人のように見えた。 「お主は、女を作れ」  口を開けば、ご託宣はそんなものだった。 「嫌です」  子でもできれば、またきな臭い話になる。即座に断ると、うーむ、と唸って次のお告げが降ってきた。 「では、まず約束でも守ってこい」 「約束ですか?」 「そうだ。約束したのだろう、その従兄弟と。ふたたび会えると」  そんなことまで、クルヤーグは話してしまっていたようだった。 「ですが――」 「無駄な陰謀を未然に防ぎたいなら、お主とその従兄弟のあいだに亀裂があってはいかん。それはわかるか」  言われてみれば、その通りだった。 「はい」 「次の月に、東方月白領の親衛兵の入れ替えがある。お主を推挙してやろう。ただし、短期間で戻らせるぞ。まだ鍛え終わったわけではないからな」  クルヤーグは茫然として答える言葉を持たなかった。親衛兵として、故郷に帰る。それは、思いつかなかった。 「その従兄弟と、仲良くやれそうなら仲良くなっておけ。おい、従兄弟は今、何歳だ」 「たぶん、九歳かと……」 「若いなぁ」 「はい」 「お主が言うな。若いのだから」 「九歳に比べれば年寄りです」 「まあ、これからは定期的に里帰りをするのだな。従兄弟と仲良くなっておけ。少なくとも、領王様はそこのところを理解なさっておいでのはずだ。でなければ、幼い子どもに長い文を書かせまい」  それはどうだろう、とクルヤーグは思った。彼が領都を出たとき、既にクルヤーグは日常の文字を踏み越えて〈本〉に使われる文字の勉強を始めており、折にふれて寄越す手紙でも、クルヤーグなどより余程流麗な言い回しの文章を書いてきた。  もちろん、剣士長はそれを知る由もない。 「お主には、辛いこともあろうがな」 「……辛いこと、ですか?」 「だが、親衛兵として行くのが、手っ取り早いと思うぞ。お主が真実、そのなんだ、国の平穏無事を願っているのなら」 「嘘ではありません」 「では決まりだ」  あとで考えてみると、剣士長がまだ新任の剣士とふたりで警護を担当するのも変だし、とくに行事があるわけでもないのに玉座の間の前をというのも不自然だった。  当時は命じられるままに従っていただけだったが、あれは剣士長が彼の伸び悩みに気づき、相談に乗ってくれようと仕組んだ「おつとめ」だったのではないかと、今なら思える。  破格に強く、言動は奔放だったが、フィアラスは意外に面倒見のよい人物だった。人の欠点を見抜けるだけの眼識があった。彼の強さの源も、そこにあったのかもしれない。   −−−−−  たとえそれが、やがて王太子の機嫌をそこねる原因になったとしても、それは王太子の責任であって、フィアラスが責めを負うべき事柄ではなかった。  彼が剣士長の役目をおろされ、出奔することになったのは、フィアラスのせいではない――それとも彼なら、笑って言うだろうか。よしておけ、難しく考えるな、おれは楽しんだだけだ、と。  ――人生というのは、楽しむべきものなのだ。自分の責任で。  だから、覚悟の上での行為だと言うかもしれない。  それでも、クルヤーグはラグソルを許す気にはなれなかった。