2005.01.31−10:20 約束 ―真世の王・番外編―  浅い眠りから揺り起こされると、部屋はまだ闇に沈んでいた。  硝子の火屋の中でたよりなく揺れる光が、彼の上に身をかがめた従卒の影を遠くの壁まで長く伸ばしている。 「太子がお呼びです」 「わかった」  理由は伝えられなかったが、察するのは容易だ。手早く身支度をととのえ、差し出された剣を腰に佩いた。黒鞘の剣を、いつもより重く感じる。  疲れているのだ、と思った。  自分もマントを羽織ろうとした従卒に、寝ていろ、と声をかける。自分がこれだけ疲れているのだ、小柄な体躯には疲労が堆積しているだろう。主人がいないあいだに休息をとらせた方がいい。 「お言葉ですが――」 「お言葉なのだから従っておけ。どうせ、じきにもっと忙しくなる。そのときに倒れられては困るからな」  名を呼んでやろうとして、口ごもる。前任の兵士が魔物に頭を吹き飛ばされてから、五日しか経っていない。  憶えても、すぐ忘れねばならぬ名なのかもしれなかった。  そう思うと問い返す気も失せる。よくないことだと考えながら、曖昧に手をふって議論を終わらせ、部屋を出た。  ――思ったより、早かった。  覚悟はしていたつもりだが、現実に突きつけられると、早い、とどうしても思ってしまう。心の準備がたりなかった証拠だ、とクルヤーグは苦い想いを噛み殺しながら身支度をととのえた。  来るべきものが来た。それだけだ。  衛兵はクルヤーグの顔を見ただけで一礼し、誰何もしない。領王の館は、思いのほか静かだった。  途中、家令とすれ違った以外、人影も見えない。 「ご苦労だな」  声をかけると、家令は静かに頭を下げた。 「恐れ入ります」 「殿下は?」 「お部屋においでのはずです」 「ありがとう」 「お悔やみ申し上げます」  クルヤーグは無言でうなずき、足を速めた。  いわれるまで忘れていたが、彼も遺族ということになるのだ。いかんな、とまた心の中で苦笑する。覚悟が聞いて呆れる。  親族だからこそ、深夜の来訪も不自然ではない。案内もなく歩きまわれるのも、幼い頃から勝手知ったる館の内だからだ。  目当ての扉の前に至ると、彼は声をかけた。 「わたしだ。入るぞ」  返事はない。かまわず、クルヤーグは扉を開けた。  中は暗かった。夜だから当然だが、灯火がない。自分を呼んだくらいだから、寝ているはずはないだろうと声をはりあげる。 「殿下! クルヤーグです」 「ああ、従兄弟殿。早かったな」  くぐもった声は、足下から聞こえてきた。クルヤーグはぎょっとして半歩下がり、それから気づいて扉を閉めた。 「なにをやってるんだ」 「いや、なつかしくなってね、なんとなく」  ごとんと音がして、壁が動いた。扉からそう遠くない、床近くの壁石がはずれ、黄色い光がさした。灯火を手にした青年が這い出してきたのは、それからだ。 「なんとなく」  クルヤーグは復唱すると、相手がさしだした燭台を受け取り、もう一方の手であいた手をって、引き起こした。 「いけないかね」  わずかに眉を上げて問い返したのが、そのへんの悪戯小僧であれば、無論なんの問題もない。 「東方月白領王の嫡子、ソグヤム太子がなされることとしては、少々難があるかと存じますな」  膝についた埃を払っていたソグヤムは、ゆっくり身を起こした。灯火の光を受けて、いつもは明るい空色の瞳が、見慣れぬ色調に見える。 「ふむ。しかしだな、死者を悼むと、どうしても過去に想いを馳せることになる。それで、なつかしんでいたわけだよ」 「人を呼びつけておいて?」 「そうだな。たしかに礼を失した行為だが、予定では、従兄弟殿が来るより早く戻って来ているはずだったのだ」  思いのほか手間取った、といいながらソグヤムは今度は肩のあたりを払った。見れば頭のてっぺんにも埃がついている。クルヤーグは顔をしかめて手をのばした。 「失礼を返しておこう」  頭を払われても、ソグヤムは気にもとめない。 「ふむ。わたしはあまり縦も横も育ったつもりはなかったのだが、やはり子どものころのようにはいかないな」 「当たり前です」  この馬鹿が、といいたいのを呑みこんだ。いちいち口にしていたら、一日中馬鹿馬鹿とくり返すことになる。 「当たり前か」  うなずきながら、しかし承服しがたいというように首をふり、ソグヤムはクルヤーグの手から燭台を取り戻すと、卓上に置かれたもっと大きな燭台に火を移した。 「こういうときだから、大した儀式はおこなわなくてかまわないだろう」 「こういうときだからこそ、領民の意識をまとめ上げるため、という考えかたもあります」  起き上がったときに感じた、剣の重み。疲労は雪のように降り積もり、静かに人々を押し潰す。なにか、撥ね除けるための力が必要だった。 「ふむ。なかなか容赦がないな、従兄弟殿は」 「ありがとうございます」 「そうそう、褒めているんだ」  褒め言葉と貶し言葉の区別がつかない者が多くて困る、とうそぶくソグヤムは、べつに相槌を必要としているわけではないのだろう。視線も彼の方に向いてはいない。着衣の隠しに手を入れて、暗い窓の外を眺めている。  ――いつもより。 「ちょっと、饒舌かな」  心の内を読んだように、言われた。 「これ以上口数が増える余地があるとは。不覚でした」 「それは嬉しいね。わたしは、つねに意表をつく存在でありたいと思っているのだ」 「これ以上は困ります」 「君を困らせるのはわりと楽しいよ。知っていると思うが」  布の襞のあいだから出した手には、古びた手紙の束が握られている。ひとめで、クルヤーグはそれがなんであるかに気づき、従兄弟がなにをしようとしているかを察した。 「駄目です」 「いや、こんなものを残しておいてはまずい」 「いつ必要になるかわかりません」 「……だから、君が来る前に終わらせておこうと思ったんだが」  ソグヤムは紙束とクルヤーグの顔を見比べると、ため息をついてそれを机上に投げだした。 「補完場所を,ご存知だったのですか」 「無論だ。母上の考えそうな場所なら見当がつく」 「お父上は――」 「ご存知ないさ。あるいは……そうだな」  ソグヤムは、クルヤーグの眼を覗きこんだ。  なにかを確かめようとしているような、そんな表情をして。それから、ふとくちもとを歪め、笑みを浮かべた。 「知っていて、気づかぬふりをなさっていたかもしれん。だが、今となっては真実などわからぬよ」 「いつ」 「従兄弟殿を呼びにやる直前だ。ちょっと使いを出すのが早かったかな」 「駄目です」  また紙束を取り上げたソグヤムの手を、クルヤーグは素早く掴んだ。 「反応がよすぎるよ、クルヤーグ」 「わたしが預かりましょう」  ソグヤムは目をまるくした。 「それは駄目だ。それくらいなら、今すぐ隠し場所に戻してくる」  有無を言わさずもぎ取ろうとしたが、ソグヤムはそれを許さなかった。押さえられたままの手を燭台に近づけようとするので、クルヤーグはあわてて力をこめ直した。 「子どものようなことはおやめください。駄々をこねるのも、隠し通路を這い回るのも、もう終わりです。父上が亡くなられたのですよ。もう、あなたは太子ではないのです、領王陛下」  重々しく相手を呼ぶと、ソグヤムは見るからに意気消沈し、椅子を引き寄せて座りこんだ。しかし、手紙の束は握ったままだ。 「つねづね、おかしいと思っていたんだ」 「なにがです」 「位が高くなればなるほど、やりたいことができなくなる。おかしくはないか」 「責任とは、そういうものです」 「いらないのだが」 「ほしいからといって、手に入るものではありませんから」  だから、いらないといって抛てるものでもない。それくらい、ソグヤムも理解しているはずだ。 「これは燃やす」 「いけません」 「燃やす。中身は憶えてしまった。現物があってもなくても関係ない」 「それでは意味がありません」 「意味などあっては困る代物だ。だから燃やす」 「陛下」 「わたしに領王を名告らせたいか? なら、燃やせ」  ソグヤムは紙束を握った手の力を抜いた。彼の膝に、床に、古びた紙が次々と落ちて散らかった。 「それとこれとは話が違います」 「違わんよ。これの中身が必要になると思うのかね? であれば、その場面を想到してみたまえ。わかるだろう、わたしが王位を要求するのでもなければ、そんなものは必要ない。そして領王位でなく、王都の玉座を欲するのなら、領王ではいられんよ」  簡単なことだろう、とソグヤムは言ってのけた。まだ返す言葉を思いつけないクルヤーグに、彼はさらに告げた。 「我が父とは血のつながりがなく、王都におわします王様の子であると証明する書状だ。これを保管してどうする。いらぬ災いの種を蒔くだけだ」 「しかし――」 「わたしが領王位を襲わぬとなれば、ここで陛下と呼ばれるのは君だということになるぞ?」  クルヤーグは憮然として答えた。 「誰が認めるか、そんなこと」 「では燃やせ。命令だ」  投げやりに言うとソグヤムは立ち上がり、窓辺に近寄った。外はまだ暗い。城壁から、たまに白い炎があがる。魔物が銀の護りにふれたのだろう。遠く地平線のあたりに眼をやれば、夜明けまでそう時間は残されていないことがわかる。  長い夜が明け、長い昼が始まるのだ。 「いいのか」 「なにが。領王位を継ぐことなら、まったくよくないが、よいの悪いので選べる話でもあるまい」  そのかわり、面倒なことはすべて御免被る、やりたいことをやりたいようにやるぞ、とソグヤムは静かに宣言した。この男のことだから本気だろうが、ではなにを始める気かと考えても、そこまではわからない。  どうせ意表をついてくるに決まっている。それも、楽しそうに。  ソグヤムが、ふり返った。 「どうした。まだ燃やさないのか」 「ほんとうに、燃やすのか。これ以外、なにもないのだろう、その――」  実の父とのつながりを示すものは、と口にしかけたが、言葉にならなかった。 「くどい。燃やせ」  きつい口調で命じて、ソグヤムは眼を閉じた。頬の線が、少しするどくなったような気がする。  彼も、疲れているのだ。自分のように外に出て戦いはしなくとも。彼の戦場はここにあり、そして今、戦の局面は変わった。ソグヤムとて心の準備はしていただろうし、病に倒れた老父に代わり、実務のほとんどは既にこなしていたのだが、それでも。 「早くしろ」 「かしこまりました、陛下」  クルヤーグは暖炉に向かうと、その前に跪いた。紙束すべてが確実に燃えるよう、ゆっくりと火にくべる。一枚ずつ。  音もなく、紙は燃えた。この一枚を手にするために命を賭ける者もいるだろうに、とクルヤーグは考えた。状況によっては、それだけの価値がある紙だ。貴人の筆跡が火に呑まれ、黒く炭化して砕ける。  彼も昔、これを読んだ。  クルヤーグはソグヤムの従兄弟にあたる。先代の、いや今となっては先々代のと呼ぶべきか、領王には男子が生まれず、女子も短命に終わった。その短命だった娘が命と引き換えにこの世に生み出したのが、クルヤーグだ。  クルヤーグが幼いころ、ソグヤムが父と呼ぶ人物が領王家の養子に来た。先代の王の息子、つまり王城に君臨する現王の弟である。身重の妻を連れていた。そして、ソグヤムが生まれた。  だから、クルヤーグとソグヤムは兄弟のようにして育ったが、血のつながりはほとんどない。  父親が、養子に入った領王でも、中央の王でも、さして違いはないのだった。そんなもの、クルヤーグには関係ない。  関係ないと思う自分が、これを保管しろと言ってしまう。まったく、地位と権力とやらの呪縛は大きいものだ、とクルヤーグは考えた。考えながらまた一枚、火にくべた。  ――そなたを遠ざけねばならなかったことを、許してくれ。  ――わかってくれとはたのまぬ。ただ許してくれ。  ――遠くにあっても、我が心はつねにそなたのもとにある。  ――我が子をともない、王都へ来てほしい。  ――今は駄目だ。諸侯の監視が厳しい。会いに来てくれても、言葉をかわすこともできないだろう。  ――我が弟を置いて、そなたと我が子だけが王都へ来ることもかなうまい。不自然だ。  ――ラグソルのことなど気にするな。あれを愛してなどいない。我が心は、つねにそなたとその子のもとにある。  ――疑うなら古い言葉で語ってもいい。物語師に伝言を持たせよう。我が弟とその家族の面前で語るようにと申し聞かせれば、疑う者もいるまい。  ――そなたの幸福を願い、平穏を祈る。なによりも。  ――王都に来てはいけない。そなたを護りきることができぬのだ、そなたに死なれるくらいなら、遠くで無事であってほしい。  ――そなたは生きよ。生き延びよ。我が子も生きて――。  燃え崩れ、落ちていく文字を追うほど、やるせなさが募る。位が高くなるほど不自由になるのであれば、この文字を綴った人物に、どれほどの自由があったというのだろう。 「ところで相談なのだが」  気配で、ソグヤムが背後に立ったことに気づいた。そら来た、とクルヤーグは思った。なにか、とんでもないことを言いだすに違いない。 「なんでしょう」 「鶏の姿を見たい」  クルヤーグは眼をみはった。ふり向いてソグヤムを見上げ、注意がそれたせいで指を火であぶってしまい、残った紙束すべてを手放した。  手紙がすべて火に呑まれたのを確認してからソグヤムに向き直る。 「なんと、おっしゃいました」 「夜明け前がいいだろうと思うのだが、今朝はもう間に合わない。明日でどうだろう? ある程度は警護の兵がいるだろうが、要は姿さえ見えればよいのでな。大々的に兵を出す必要はないと思うのだ。君の意見を聞きたい、何人くらい――」  夜明けを告げる狂った声が荒野に響き渡り、ソグヤムの声をかき消した。