dawn valley (ver.2015)  パステルを塗り込む手を止めたのは、ものたりなさを覚えたからだった。  細目の紙を貼ったイラスト・ボードには、すでに多くの色が載せられている。混色が進んだ画面は、複雑にかがやいていた。  けれど、なにかが違う。  ――もっと、光がほしい。  画面全体に視線をはしらせ、ぼくは考える。暗さが必要なのかもしれない。明るさを表現するには、どこかを暗くするのが効果的だ。  だが、この絵は暗くしたくない。たとえ部分であっても、暗さを感じさせたくないのだ。  光だけが、ほしい。  身を起こし、方角を変えながら絵を眺める内に、視界がぼやけてきた。  ぼくは、目を閉じた。  ――まだ、早い。  今のは気のせいだ。急に集中をといたから、頭を上げたから。……それだけだ。  閉じた目蓋を開く勇気が出なくて、どれくらい時間を無駄にしただろうか。  不意に、肩に重みを感じた。 「なにやってんだ?」  頭上から降ってきた声の明るさに、なぜか目蓋の裏があたたかくなった。 「絵を……」 「目を閉じてか? 器用なヤツだな」 「そんなのできたら、器用なんてものじゃない。曲芸だ」  短い、笑い声。 「たしかにな。で、曲芸を見せてもらえるのかな?」 「……休んでただけだ。目が疲れたようでね」  おそるおそる目蓋を上げる。視界は、正常――もう少しで完成しそうな絵と、パステルを握ったまま静止した手。  肩から力がぬけるのがわかった。見える。大丈夫だ。 「なに描いてたんだ?」  彼は無造作にイラスト・ボードを取った。そのボードの端がぼくの手に当たり、持っていたパステルが飛ばされてしまった。 「あ、悪い。苦労して持ち込んだ貴重品なのに」 「いや、いいよ。気にしないでくれ」 「新しいのは手に入らないぜ?」 「ほんとに、いいんだ……その色は、もう使い終わった」  ボードを手にしたまま、彼はぼくの傍らを離れた。  ゆっくり鑑賞しようとしているわけではなさそうだ。視線は、ほかへ向かっている。 「外、見るか?」  ぼくは彼の提案を退けた。 「いや、見たくない」  彼は立ち止まった。パネルを操作するつもりだったらしい手を戻し、そのまま髪をかき上げる。 「悪いけど、これがなんの絵なのか、わからないな」 「夜明けだよ」 「夜明け?」 「山あいの谷が、薔薇色に染まる瞬間を描きたいんだ」 「へえ。見たことあるのか? そういうの」 「子どもの頃だけどね」  うなずいてから、彼は地上の夜明けを見たことがないのだと思いあたった。  彼は、生粋のスペース・マンだ。月基地に勤務する両親から生まれた史上十八人めの月人。月基地で育ち、そこから宇宙へ翔びたった。地上でも不自由なく動けるよう、訓練は欠かさなかったものの、結局、降りて来ることなど滅多になかった。 「おれには縁のない風景だな」 「これからは、みんなそうなるね」 「……そうだな」 「山も、谷も、夜明けも。すべて、関係なくなる。ぼくらは宇宙を漂流して、どこへ行くんだろうね? 地球を捨てて」  ボードをぼくに突きつけて、彼は宣言した。 「新天地さ」  新天地? それはどこなんだ? 何年あればたどり着けるんだ? 百年? 二百年? それとも千年か――。 「さあ、つづきを描けよ。じき、本船に着く」  機械的に、ぼくはパステルを手にとり、稜線をなぞった。角を使って、繊細な線を描く。  光を、ぼくは描きたかった。  朝が来るたび、世界は光で満ちる。それは当たり前過ぎて、ぼくにとっては疑問の余地がないものだった。今、その光を描くことは、失われゆくものを手元に留めたいという、切望の表現だった。  ――でも、彼にとっては、違うんだ。  月基地にも、宇宙ステーションにも、太陽光は届くだろう。だが、地球のように、その光を孕む大気がない。見えかたは、まったく変わってしまう。  空気があるのは区切られた場所だけ、光源は人工の照明となるだろう。この部屋が、まさに、そうだ。 「人間は、描かないのか?」 「人は景色を汚すだけだから」  なんの考えもなしに答えてしまってから、傷ついたような彼の表情を見て、今のはまずかったかな、と思った。たぶん、ぼくは彼を悲しませたのだろう。  俯いて、彼はつぶやいた。ほとんど、ひとりごとのように。 「……無理に連れてきて、悪かった。地上に残って——死ぬつもりだったんだろう?」 「さあ。どうするつもりだったかな」  ――自分のエゴで、ぼくを生かしてしまったと思っているんだろうな。  彼は、ぼくが死ぬつもりだったと思っているのかもしれない。きっと、そうだろう。  たしかに、あの状況では、そう思われても無理はない。遠からず破滅が来ることを知っていて、逃げ出さなかったのだから、死を覚悟していたと誤解するのは、むしろまともな反応だ。  だが、違う。ぼくは、すべてを放棄していただけだ。  そこへ、彼が来たのだ。  無理強いをされたわけではない。来い、と叫んでのばされた彼の手に、逆らうことができなかった。 「きみ以外の誰かだったら、拒否していたかもしれないね」 「そうなのか?」 「ああ。ぼくは、きみに憧れていたから」  暫し、彼は無言だった。ぼくも、それ以上の言葉をかさねることなく、パステルを擦りつづけた。そろそろ完成でもいいかもしれない、と思いながら、それでも、手放しがたくて。 「……嫌われてるんじゃなかったのか?」  ぼくは笑った。吐息で吹き飛んだパステルの粉が、空気に淡い彩りを添える。  彼は顔をしかめ、早口でつぶやいた。 「だって、そう思うだろ。最近は連絡しても返事がなかったし……」  それでも彼は、ぼくを迎えに来た。  母の声が、耳によみがえる。  ――宇宙でいちばん大事なものは、高い知性でも、俊敏な運動力でもない。人を許せる心が、最高に重要なの。  彼とぼくの両親は、同僚同士だった。どちらも月基地に勤務していたのだ。  ぼくの母は地上勤務時に妊娠を知り、祖母にひきとめられて、そのまま地上で出産することになった。父は、ぼくが生まれる前に、月基地の事故で亡くなった。出産を終えたら宇宙へ戻るはずだった母が、結局、地上で生を終えることになったのは、そのせいだ。危険過ぎる、と祖母が主張したのだ。  諦めとともに、母はぼくを育てた。愛してくれなかったとは思わない。愛してくれたからこそ、母は地上に留まったのだ――だから、ぼくは自分を許せない。  ――宇宙は危険で、気を抜けない場所よ。孤独を気取る余裕なんて、ない。生き延びるために、人は手をとりあう必要がある。許せるというのは、スペース・マンであるための重要な資質なのよ。  母は、ぼくや祖母を許していたのかもしれない。でも、ぼくは許せない――宇宙には不向きな人種なのだ。 「妬ましかったんだよ。ぼくは、心の狭い人間だからね」  彼は、バランスを崩したらしい。熟練のスペース・マン特有の、低重力下での優美な動きを失い、わずかにばたついて。ようやく平衡をとり戻してから、途方に暮れたように尋ねた。 「なんで?」 「ぼくは、母を失望させた。母は、ぼくにスペース・マンになることを望んでいたからね」 「いわれたのか?」 「直接、告げられたことはないよ。でも、わかるだろう、そういうのって」 「……そうだな」  わかっていながら、できなかった。ぼくは、母を地上に縛り付けるだけでは飽き足らず、自分自身をも重力の軛に繋いでしまった。  記憶の中の母は、かならず空を見上げている。  ――地上暮らしって、ゴージャスよね。こんなに美しいものを、無料で鑑賞できるなんて。  でも、彼女は空を見上げたかったのではなかった。そこに、みずからの身を置きたかったのだ。  月基地との、頻繁な通話。連れて行ってくれた管制センター。地上に降りて来たかつての同僚たちと、親しげに会話する母の姿を、ぼくは覚えている。  彼の両親のことも。  ――うちの子を、紹介しよう。  示されたのは、月基地との通話画面だった。同じ年頃、似た境遇の両親から生まれ、違う運命をたどる少年。  なんとなく気が合って、親しくメッセージをかわすようになった。開放的で快活な彼と、内向的で皮肉っぽいぼく。どんな冷笑的なコメントをしても、彼は明るく笑い飛ばした。楽しんでくれさえした。彼が調子に乗り過ぎたとき、たしなめるのは、ぼくの役目だった。  正反対なのに仲がいいわね、と母は苦笑した。そのたびに、ぼくは思った。  ――彼があなたの子どもならよかった?  反対の方で、残念だったね。彼なら、あなたの理想を生きてくれただろうに――その考えは、ぼくの心に刺さって抜けない刺のようだった。 「きみみたいになれたら、よかったな。母も喜んでくれただろう」  長い沈黙のあと、でも、と彼はささやいた。 「でも、あんたは誰かを喜ばせるために生きてきたんじゃない。それって、すごいことだ。おれの人生の半分は、そうだった。ひとの期待に応えずにはいられないんだ」  吐き出すように告げて、彼はまた後ろを向いた。今度は、流れるような動きだ。どうやったら、あんな風に動けるのだろう。こちらは、磁力靴の力を借りて、床に貼り付くことしかできないのに。  彼は、言葉をつづけた。 「おれの方こそ、あんたに憧れてた。あんたは、何からも自由だ。誰にも気兼ねせず、いつも自分自身でいられる」  自分がどんな表情をしているか、わからなかった。  彼には、ぼくがそんな風に見えていたなんて。  違うのに。気兼ねしなかったんじゃない、できなかっただけだ。 「でも、きみも、半分は自分のために生きられたんだな」 「え?」 「期待に応えられる人生って、いいと思うよ。残り半分を、自分のために使えるなら、なおさらね。それに、きみは宇宙が好きなんだろう? スペース・マンになったこと、後悔してないだろう」 「ああ……まぁ、天職かもな。悔しいけど」 「でも、きみが努力をしなかったわけでも、挫折を知らないわけでもないことは、ぼくが知ってるよ。たとえ生まれながらのスペース・マンでも、はじめから完璧だったわけじゃない、ってことをね。きみの人生は、きみが作ったんだ」 「……そっちもな」  ぼくらは笑みをかわした。 「でも、ぼくの方がよく覚えてると思うね」 「そうだよな、忘れてほしいことを忘れてくれないやつだからな。全部覚えてそうだ」 「ステーションでレンチを一個、紛失してはいけない場所で紛失して、あやうく事故を起こしそうだったことも、涙目で通話して来たことも、ちゃんと覚えてるよ」 「……やっぱりか」 「もちろん」  ぼくは絵を描く作業に戻った。蓋を閉めるのを怠ったケースから自由になったパステルが、あたりを飛び回っている。ぼくよりよほど、低重力環境に慣れているようだ。  必要な色は、手の届くところにあった。そいつをつかまえて、イラスト・ボードに擦りつける。台にボードを押し付け、動かないように固定するにも、地上とは力加減が違う。重力のせいだ。摩擦で散った粉も、画面に落ちつきづらい。宇宙で画業をきわめるなら、それなりの技法を考える必要がありそうだが、これが最後の絵なら、先のことなどかまいはしない。  未来など、ないのだ。  もう、地球には誰も住めない。人類だけではない。すべての生命の生存に適さない環境となってしまった。  人類は地球から逃げ出すのだ。大船団を組み、星々の海のかなたへ船出する。さだかならぬ新天地の夢をみながら、ぼくらは宇宙の漂流者となる。  遺伝子データや記憶バンク、そして膨大な情報とともに、どの船も、冬眠処置を施された人間をおさめたカプセルを、びっしりと積んでいる。蜂の巣(ハニー・コム)と称されるその構造は、最高の空間収容効率、高い堅牢性、一部が破損しても他に被害が及ばない安全性などを喧伝されていた。  船自体が壊れても、ほかのカプセルと離れても。なんら支障なく、ただよいつづけることができるだろう。運がよければ、未来永劫に。それを許容するほど、宇宙は冷たく、広大だ――ぞっとする。  やはり、地球で死ぬべきだったかもしれない。彼の手を、ふり払って。 「……外を見せてくれないか」  彼の手が、壁のパネルの上で踊った。  漆黒の闇が、壁を浸食しはじめる。上方から、上品な象牙色がゆっくりと星空に変わっていく。  そして——地球。 「地球光が見えるかと思ったのにな」  彼の声は、なにか膜をとおして聞くようだった。  呼吸を道連れに、鼓動が速まっていく。不安が、ぼくを押し潰した。  ぼくが宇宙に出られない原因は、これだった。空間恐怖。もう何分も前から、ぼくはそれと戦っていたのだ――壁一枚向こう側は、真空の、無限の宇宙であるという恐怖と。  ぼくはずっと、恐れていた。宇宙は父の命を奪い、母の心を奪い、いずれはぼくの正気を奪うだろうと考えていた。  広大な空間に身を置けなくなったのは、いつからだろう。最後に、この目で夜明けを見たのは、空を見上げる母の横顔を見たのは、いつだったろうか。  ――見えた、あれがそう? そうだよね、ステーションだ!  暗い空を横切っていく、まばゆい光。並んで見上げる母の顔は遠く、表情を窺い知ることはできない。  いくつもの情景が、脳裏に浮かんでは流れ去る。  通話用モニターの中で、ステーション勤務だった頃の彼が笑う。  ――見ろよ、おまえが住んでる場所の上を通過するぜ、ほら! あの光! 「見ろよ」  彼が、ぼくの肩をたたいた。 「夜明けだ」  地球の向こうから、白い光の矢が、霞む視界にとびこんできた。  太陽だ。  その光を受けて、地球もかがやいていた。  それは、あまりにも美しすぎた。美しいという言葉が空虚に聞こえるほど。  はじめて、ぼくは宇宙を怖がらずに見つめることができた。  ああ、とぼくは思った。あんなにも地球が青いなんて。ぼくらが汚してしまったにも関わらず、あんなに輝いているなんて。  あの惑星に、もう生物が住めないだなんて、誰が信じるだろう。  宇宙で迎える夜明けは、ぼくを圧倒した。直進する光、塵による屈折のない純粋な光が、そこにあった。  ひょっとすると、ぼくはこの夜明けをこそ描くべきだったのかもしれない。未来などないものと目を背けず、新しい世界への旅立ちを祝す絵を。  それでも、とぼくは自分の描いた絵に視線を落とす。  ――これはこれで、必要なものだったんだ。  本船に着くまでの短い時間で、ぼくにできた、最良のこと。 「……この絵、もらってくれないか?」 「おれが? いいのか?」  うなずいたぼくの顔を二度見して、彼は、おそるおそるという感じでボードを手にとった。さっきは、あれほど無造作に取り上げたくせにと思うと、なんだか笑いたくなった。 「定着剤がないから、こすると色が落ちるけどね」 「代用品がみつからないか、あとで調べてみるよ。大事にする……ありがとう」  もうじき、ぼくも冬眠処置を受けることになる。次に目覚めるのがいつなのか、そもそも目覚めることがあるのか、ぼくにはわからない。  たしかなのは、船員として当直にたたねばならない彼は、ぼくより早く老いるということだ。ぼくが目覚めるときには死んでいるかもしれなかった。  宇宙では、夜は長い。気が狂うほどに。  長い眠りの果てに、目覚めが待っているとしたら。そのとき、ぼくはなにを見るのだろう。  確かなことは、ひとつだけ。  ――見ろよ、ほら。あの光!  ぼくは、思いだすだろう――彼の声を。  ――夜明けだ。 END. この物語は、TM Networkのアルバムに収録されたインストルメンタル曲「DAWN VALLEY」から発想したものです。 キャラクターに、特定のモデルは存在しません。 友人の同人誌に寄稿するために書いたものを、2015年に書き直しました。 原型は留めていますが、原型しか留めていません。 2015年5月 妹尾ゆふ子 初出「CAROL BOOK」1988年発行(さんがつゆふこ 名義) 再録「MOON GROW」1992年発行(同上) 再々録「THANX from Fanks!」2015年発行(同上、妹尾ゆふ子 併記) this story is dedicated for the beautiful music "dawn valley" by Tetsuya Komuro.