99.4.17

 地下に住んでいれば安全ということもないのに、人々は地下に潜った。
 もちろん、やつらは地下街にもあらわれる。頭上からいきなり襲われるか、どこへつづくとも知れぬ薄暗い通路から——一瞬前まではたしかに存在しなかったはずの通路からあらわれた[やつら/傍点]に首を刎ねられるか。それだけの差しかない。
 見晴らしのいい場所で羽音を聞くよりは、地の底から響く足音の方がましなのか。
「究極の選択だな」
 シンヤはつぶやいた。
 たぶん、狭いところに逃げこみたいのだ。堅固な壁も床も、なんの守りにもならないと知っていながら、それでも求めてしまうのだ。
 安全な場所。明日の生命が保証されている場所を。
 こうやって分析している自分自身も、そうした惰弱な精神をかかえた個体にほかならない。
 弱いから、脅える。だから、警戒する。それでどうにか、今まで生き延びてきたのだ。自分の弱さを責めるつもりはない。
 彼は、崩れた壁の破片の上に座っていた。コンクリートのあいだから捻じ切れた鉄筋が覗いているのをこれ幸いと、オットマンのように使っている。
 ななめにかさなった別の破片は、背もたれである。
 クッションがないのが痛いところだが、住環境をととのえる気にはなれない。どうせ、移動に継ぐ移動の日々なのだ。
 一ケ所に腰を据えれば、やつらに皆殺しにされるのがオチだ。
 シンヤが身を置いている集団は、毎日のようにこまめに移動していた。移動先で運悪くつかまるやつもいたが、定住組よりは生き残る確率が高いようだ。移動するといっても似たような場所をぐるぐるまわっているだけだから、通りすがりに定住組のようすを見ることはできる。
 すでに、十指にくだらない集団が、構成数の減少により崩壊、あるいは全滅してしまったのを彼は見てきた。
 自分の選んだ道に間違いがなかったことは、わかっている。
 だが、居心地のよかったこの集団にも、そろそろやばい雰囲気がただよいはじめていた。
 派閥ができてきたのだ。もちろん、リーダー争いに関連してである。
 きわめてばからしい、とシンヤは思った。
 集団がいれば、頂上をめざすやつが出てくることは、わかる。それはいいだろう、率いる者がいなければ、集団は統一した行動がとれない。
 その候補がふたりいるのも許すとして、構成員の全員がどちらかの派閥に入らねばならないという、明瞭な二分法を適用するのは勘弁してほしいところだ。
 これも、選択のひとつには違いない。
 だがシンヤにとって選択とは、どちらの候補を選ぶかという問題ではなかった。
 彼が選ぼうとしているのは、集団をはなれてひとりになるべきかどうか、というポイントだったのだ。
「これもまた、ある意味じゃ究極の選択か」
 ひとりでどうやって生き延びるか。寝ているところを襲われたらどうするのか。ひとりなら、やつらに発見される確率は下がる。だが、やつらに囲まれたら逃げきる可能性はほとんどない。
「究極の選択って、なに」
 シンヤのひとりごとを聞き付けた連れのひとりが尋ねた。たしかアミとかいう名前だったはずだが、こいつは最近、リーダー候補Aのオンナになったのだ。あまり近づきたくない相手だと、シンヤは考える。
「to be or not to be...?」
 はあ? ……と、アミは首をかしげた。
「なにいってんの?」
「日本語には翻訳できないのさ。えらい翻訳家の先生がたのあいだでも意見がわかれる台詞でね」
 わっかんなあい、とアミ。
「あんた、学生さんなの?」
 あまりにも素頓狂な質問に、シンヤは吹きだしそうになった。
「やつらが来る前はね。あんただってそうだったろ」
「あたしは、ただ生きてただけだし」
 アミはまじめに返した。犬みたいな、すがるような眼差しだ。自分が相手より弱い立場にあると知り尽くしている生き物だけができる、しぜんな上目遣い。
 この女は誰にだってこんな眼をする。べつに、彼にたよろうとしているわけじゃないのだ、とシンヤは考える。いや、たよろうとしているのかもしれないが、誰にだってたよるのだ。
 自分でなければならない、なんていうのは錯覚に過ぎない。
 シンヤは薄暗い天井を見上げた。光源は、かれらの集団が『キャンプファイヤー』と呼んでいるたき火だった。毎晩燃やすこの火は、ある種のやつらを撃退するには効果的だ。だが、別の種類にはまったく効果がない。
「学校、行かなかったのか」
 尋ねると、アミは鼻で笑った。
「行ったわよ。義務教育ってもんがあるじゃん」
「おまえ、中卒?」
「違うわよ。短大に入学が決まってたの」
 シンヤはあきれた。
「短大のどこが義務教育だよ」
「だって、みんな進学するっていうんだもん。あたしも行かなきゃおかしいし。ほとんど義務みたいなものじゃん」
 だから、とアミはつづけた。
「ふつーに生きてただけで、勉強してたって感じがしないの。女子高生だったことはあっても、学生さんだったことはないって意味」
「一般的な単語を特殊な用途に使うなよ」
 苦笑しながら、それでもシンヤは彼女のいいたいことがわからないでもなかった。
 ふつーに生きてただけ。
 そんな幸せな時代があったんだ。
 もはや『学生』も『女子高生』も、一般的な単語ではなくなってしまった。過去を語るならともかく、すくなくとも今、この時代では。
「ねえ……」
 なおも話をつづけようとするアミに、シンヤはかるく手を挙げた。
「悪い。おれ、モヨオシた」
「モヨオシってなによ」
 シンヤが股間を指さすと、アミはぎゃははと笑った。
「なに、勃っちゃったの」
「そういうときは、悪いとはいわねぇよ。だって、悪かねぇだろ。相手の魅力を認めてることになるんだからさ」
「じゃあどうしたのよ」
「小便」
「はじめからそういいなさいよ。まぎらわしい」
 おまえにいわれたかねぇよと心中つぶやきながら、シンヤはコンクリートの破片からすべり降りた。
 アミを自分のオンナだと思っている野郎が、とげとげしい視線を投げているのに気がついたときに、シンヤは選択を終えた。
 ばかばかしい。こんなところにいられるか。
 かつては店だったらしい区画を横目で眺めながら、ぶらぶらと歩く。
 わざわざトイレまで行く必要はなく、そのへんで済ませてしまえばいいのに、彼はどんどん歩きつづけた。このまま集団を離れてしまうつもりだった。
 集団の姿が遠い影くらいになったときだった。悲鳴が聞こえたのは。
 一瞬だけふり返って、予想が事実だったことを確認する。背の低い、いびつな人影が五つほど、赤い霧のなかで踊っているのが見えた。
 やつらが襲ってきたのだ。
 予想と違っていたのは、アミが彼からそう遠くない場所までついてきていたことだった。
 ふつーの女子高生だったと語った彼女は、棒立ちになって仲間たちが襲われる光景をみつめていた。
「逃げなきゃ死ぬぞ」
 シンヤが声をかけると、あの眼が彼をみつめた。すがるような、眼差しだった。
「来なければ置いていく」
 断言すると、アミは眼をみはった。それから、肩ごしに仲間たちの方を見た。
 つきあってられないぜとつぶやいて、シンヤはきびすを返し、走りはじめた。
 シンヤの見立てが間違っていなければ、今集団を襲っているやつらは、一匹ずつの攻撃力が高い種だ。五匹もいたら、集団が本気で戦っても撃退できるかどうか。
 どうせ離れるつもりだったのだ、見捨てるのに決断など必要なかった。彼はそもそも、群れるのは好きではないのだ。
 ただ、完全な孤独があまり長期間つづくのが耐えられないだけで。
「助けて!」
 アミの叫び声に、それでもシンヤはいちどだけ足をとめた。
「助けてよ! 仲間でしょ!」
「仲間?」
 シンヤはふり向いた。気もちの悪い単語を聞いた。しかも口にしてしまった。
 彼が自分の方を向いたことでほっとしたのか、アミの表情がゆるんだ。
 だが今はそれどころではなかった。
「人は、誰だってひとりだよ」
 アミは地団駄を踏んだ。
「なんの台詞か知らないけど、かっこつけてる場合じゃないでしょ! みんなやられてんのよ、助けに戻ってよ!」
 シンヤは怒っていた。陳腐なお友だちごっこなどに、そもそも参加すべきではなかったと、自分自身に憤っていた。
 悠長に会話をつづけていられるのは、かなり遠いからだ。
 恐怖と苦痛、そして怒りの叫びが通路に響きわたる。アミは両の拳を握りしめて立っていた。すんなりとした立ち姿の向こうに、歓喜の踊りを踊るやつらの姿が見えた。ここから見れば豆粒のようだ。ひねりつぶすことなど、わけもないように思える。
「戻りたければおまえが戻れ」
 アミのシルエットがかすかに揺れた。
「おれをなんだと思ってんだよ。スーパーヒーローじゃねぇんだよ。自分の命を守ってくのだっておぼつかない。人様を助けてさしあげようなんざ、おれの手に余る。誰の手にだって余るさ」
 ひどい、とアミはつぶやいた。もとはショートカットにしていたのだろう、長さのそろわない髪が、ふるえるほそい肩を撫でて揺れている。
「ひどいじゃない、今日までみんなでいっしょに」
「みんないっしょにいたのは、小魚が群れるのと同じ理屈だ。一匹が襲われてるあいだに、群れの残りが逃げられる。それだけのことさ」
「助けてよ」
「だから。なんでおれが助けなきゃならねぇんだよ」
「だって……」
「あたしはふつーの女子高生だから、とでもぬかすつもりじゃねぇだろうな。そんなもの、もうこの世に存在しねぇんだよ。助けたいなら、おまえが自分で助けろ。それができねぇってなら、自分ができねぇことを他人にたのんでるってことを、自覚しろ」
 アミは信じられないことばを聞いたとでもいうようによろめき、それから首を左右にふった。そうでなくてもいつも濡れているようだった眼からは、涙がぽろぽろとこぼれている。
「襲われるのは、はじめてじゃねぇだろ。おまえの仲間だって、生き残るかも、全部は死なないかもって考えるんなら、早く戻って、加勢してやれよ」
 一拍置いて、アミはうなずいた。シンヤはおどろいた。まさか、彼女がほんとうに戻るとは思ってもみなかったからだ。
 せいぜいがとこ、ここで泣きわめいてやつらの注意をひき、みじめにぶち殺されておしまいだと思っていた。
 綺麗な子だ、とシンヤははじめて思った。いつも、アミの動きはどこか媚びている感じがした。まったく無防備に立っている今の彼女からは、それが感じられなかった。自分をどう見せようという計算もなにもなく、ただ虚心に立っている彼女になら、シンヤも魅力を感じた。
 アミは左手の甲で涙をぬぐった。
「……あんた、名前なんていうんだっけ?」
「そんなもん知ってどうする。もう会わねぇよ。早く行け」
「あたしがこのまま死んだとしても、あたしや仲間たちのことを憶えてる人が生き延びてるんだって、最期に思えるじゃない。そのひとの名前は?」
 うまいことをいう、とシンヤは思った。
 はじめて、アミという女の子を知ったような気がした。集団のなかの大勢の女の子のひとりではなく、アミという女だと思える。
 そういう相手になら、名前を教えてもよかった。
「シンヤ」
 告げると、アミは彼の名前をくり返した。それから、
「じゃあね」
 とひとこと、ひらりと手をふって走り去った。
 シンヤは彼女を追わなかった。
 ほんとうに、集団には恩も義理も感じていなかったし、命を惜しむほどに深くつきあった相手はひとりもいなかったのだ。
 どうせ離れるつもりだったのだ。このまま立ち去れば、かれらが生きていようがいまいが、同じことだ。
 どちらにしても、シンヤの主観的世界から、かれらは消える。
 アミが告げたことばも、シンヤの心を揺り動かしはしなかった。
 誰かに憶えておかれようが、誰も憶えているまいが、結局——人は死ぬのだ。
 シンヤは走った。
 このすこし先に、まだ電源の供給が断たれていない地下街が残っていたはずだ。
 今、シンヤがさっきまで属していた集団を襲っているやつらは、暗闇でより活性化する。光は苦手なはずだ。
 記憶が導くままに、シンヤは駆けた。
 派手に割れたショウ・ウィンドウと、床にころがったモニュメントが目印だ。その角をまがると、遠くにうっすらと白い空間が見えてきた。
 ありがたい。
 まだ電気は来ているようだ。
 発電所は、まだまともに機能しているのだろうか。ひょっとすると、職員がたてこもっているのかもしれない。密閉度の高い建物や、精密機器の詰まった場所には別の種類が出るという噂を聞いたことがあるが、それらは人を襲うより、機械類の破壊に熱中するのだという。
 グレムリンと呼ぶのだと、彼にその話をした男はいっていた。
 地下に出没するやつは、レッド・キャップ。
 空を飛んでるのはピクシー。
 おれが勝手にそう呼んでるだけだがね、と男は笑った。笑ったまま、彼は死んだ。不意にあらわれたレッド・キャップに、首を刎ねられたのだ。
 赤い血の帯をひいて、彼の首が飛んでいくのを、シンヤは黙ってみつめていた。もう一年くらい前のことだ。いや、もっと前かもしれない。
 男の死とひきかえに、シンヤは生命を拾った。レッド・キャップが男を夢中で切り刻んでいるあいだに、彼は逃げた。
 声をあげなかったことも幸いしたのだろう。レッド・キャップはシンヤを追ってこなかった。
 彼は逃げのびたのだ。
 それ以来、シンヤはただひたすら、生きることに専念した。いや、死なないことに留意したというべきか。
 誰もがあっけなく死んでゆく。
 シンヤがまだ生きているのは、彼が注意深く行動しているせいもあったが、ほんとうは運がいいからだ。
 いつかは運を使い果たし、彼もやつらに殺されるだろう。
 どうせなら、できるだけ長く生きていたい。
 今のシンヤが望むのはそれだけで、それはもっとも難しい願いなのかもしれなかった。

2017-05-02 公開/断片なので、現在、この先はありません。

妹尾ゆふ子 Yufuko Senowo